【カラテトランスフォーマー】vol.08 山中ファミリー~家族で習えば、空手は100倍楽しくなる。

山中ファミリーの中で最初に空手を習い始めたのは、長男の脩叶(しゅうと)君だった。3年前の2010年、彼が4歳の時に、新設されたばかりの東京ベイ港支部・品川港南口道場の門を叩いている。父・淳司さんは、「息子は体が小さく、アレルギーや軽度の喘息が出ていたので、武道をやらせたいと思っていました。道場へ通い始めてからは、不思議と一度も発症しなくなりました」と当時を振り返る。“健康で強い子に育ってほしい”という思いは、親ならば誰でも持っていることだろう。空手を習うのは自然の流れともいえる。

また、甥っ子が空手をやっていたことも背景にあった。ネットで空手を検索していると、たまたま自宅近くに東京ベイ港支部の道場があったため、通い始めるキッカケになった。母・裕美子さんによると、「他の習い事は嫌だと言っていましたけど、空手だけはやりたいと言ったんです」と張り切っていたと言う。最初の2、3回は泣いていたようだが、やがて慣れていくと熱心に取り組むようになる。そして、リーダーシップを発揮するようになっていった。現在は、順調に青帯へ昇級。第8回東京佐伯道場交流大会の型・幼児の部で優勝すると、同第9回大会では小1初級の部でベスト8に入っている。少しずつ実力をつけてきたこともあり、将来は「世界チャンピオンになりたい!」と目を輝かせた。

 息子の成長に刺激されたのは、父・淳司さんだった。学生の頃からスポーツで頭角を現し、大学・社会人とラクロスの選手として活躍した。全日本選手権で7回の優勝、2006年には、日本代表としてワールドカップに出場している。一流のアスリートとして業界を牽引していた時代もあった。だが、両ヒザをケガしてしまい、手術をすることに。手術は成功したものの、一線を退く決断に迫られた。激しく走るスポーツで、ヒザのケガは致命傷になる場合もある。ましてや一線級となれば、なおさらだ。結局、ラクロスはこれまでとは違った形で接するようになっていった。ところが空手を通じて息子が逞しくなっていく姿に触発されたのか、アスリートの血が騒ぎ始めていく。息子が始めた1年後、父親も道着の袖に腕を通すこととなった。

「見るのとやるのは、全然、違います」と苦笑する淳司さんだが、そこは元一流アスリート。すぐに順応ができるようになり、突きで前へ出る組手スタイルを確立し、緑帯に昇級すると、2013年2月24日に開催された第3回総本部交流大会のシニア男子30歳以上40歳未満重量級チャレンジで準優勝、同年6月2日に行なわれた川崎東交流試合でも、壮年男子35歳以上42歳未満中・上級の部で準優勝に入賞した。少ないキャリアを考えれば、十分な成果を叩き出したと言えよう。

3人目は、母・裕美子さんだった。裕美子さんもラクロスの選手で、淳司さんと同じように大学、社会人ともに真剣に取り組んでいたと言う。出産後もラクロスを続けるほど、身体を動かすことが好きだったようだ。運動が大好きな母親の前で、息子と父親が空手に魅了されていく姿を見て、触発されないはずがない。指導員の亜翠佳先生からも「お母さんも、やりましょう」と誘われていたこともあり、心を揺さぶられる日々が続く。「下の子がいたんで、なかなかできなかったんです……」という理由が背景にあったため踏み切れなかったようだが、ついに2012年3月、道場で知り合いになったママ友とともに入門を決意した。こうして3人の空手ライフがスタートすることとなる。青帯を取得し、母親も奮闘中だ。妹の友結香ちゃんは、まだ空手を習っていないが、家族3人がやっていれば始めるのも時間の問題だろう。

夫婦で組手稽古(スパーリング)をすることもあり、裕美子さんは「思い切りできるから楽しい」と話し、「こっちはやりにくいですけどね」と淳司さんは苦笑い。それでも楽しそうに微笑み合い、むしろ夫婦円満につながっているのかもしれない。
仕事や家事、学校をそれぞれがこなしながら、空手の稽古・試合に取り組む多忙な山中ファミリー。空手という共通の話題ができたことで、家族の絆はさらに深まっているようだ。空手によって健康になり、礼儀・礼節はもちろんのこと、人を思いやることで人生が豊かになっていく。こんなに素晴らしいことはない。そして一人よりも二人、三人……と仲間が増えていけば、空手は10倍、いや100倍は面白くなっていくはずだ。

山中ファミリーの素敵な笑顔が、それを証明しているようでもあった。
当面の目標は、父と子ともにカラテドリームカップに出場して入賞すること。また家族揃って黒帯になることが、究極の夢でもあると言う。世代を越えて共通の夢を持てるなんて、空手ならではのことかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.07 宮尾陽一さん~63歳の闘うドクターは弱気を救う

父親が自衛官だった宮尾陽一さんは、幼少の頃から日本全国を転々としてきた。体は大きいほうではなかったが、人一倍、正義感が強く、弱い者の味方になることをポリシーにしてきたという。大学時代は学生運動の真っ只中で、熱血派の宮尾さんは「スポーツをしている暇がない」ほどの多忙な日々を過ごす。その一方で、医者になって海外で困っている人を助ける夢を抱き、千葉大学(医学部)卒業後は本格的に医療の道へ進むこととなった。

大きな影響を受けたのは、小学生の時に読んだアルベルト・シュヴァイツァー(ドイツ出身のフランスの神学者・哲学者・医者)に関する本。「その本を読んで以来、未開の地で病気と取り組むことに魅力を感じていました」と宮尾さんは語る。外科医(消化器・乳腺)となって千葉県内のいくつかの病院で勤務した後は、長野県の病院に配属。そして、かねてから希望をしていたNPOやNGOの国際的な民間の医療・援助団体が行なっている海外への医師派遣求人に志願し、アジア・アフリカ諸国で苦しんでいる患者を助けることがライフワークになっていった。そこで目にした光景と経験は、宮尾さんの原点にもなっている。

「夢は実現しましたが、日本と派遣国の医療の違いの現状に愕然としました。たとえば、世界にあるCT機器の半分は日本にあると言われていますが、タンザニアには数台しかありません。1日に何度もCT検査を受けて病気の不安を取り除く日本人と、頼れる器械も医者も薬もないところで子供たちがポロポロと死んでいくアフリカの人々が、同じ時代に同じ地球上で共存している。この違いはなんだろうかと思うようになりました」

ちなみに厚生労働省が発表している、日本の65歳以上の一人当たりの1年間の平均医療費は約70万。反面、海外では約100~1000円の国もある。日本と海外の医療後進国の格差は、周知の事実ではあるが、実際に現場で直面するとその衝撃は大きかったことだろう。宮尾さんは、さらに日本と世界の医療格差について次のようにコメントしている。

「日本では治る病気やケガでも、海外だと対応できない国もあります。医療費の問題もありますが、医療器具や医師不足は深刻です。日本で育った私たちは、当たり前のように電気、水道、ガスなどを利用しています。近くのコンビニへ行けばなんでも揃っています。でも水は出ないし、電気もつかない場所が、この地球上にはたくさんあるんです。そうした現状を知ることが、私たち日本人には大切なことではないでしょうか」

国際派のドクターとしても活躍する多忙の生活な中で、宮尾さんは60歳を過ぎてから品川道場へ通うようになる。これまでにも長野の北斗会館で2年間、空手を学んでいたことがあったが、7年前に都内へ引っ越してきてからは道着の袖に腕を通すことはなかった。だが自宅の近所に品川道場の看板を見つけて、心が揺さぶられる。60歳からのリスタートになるが、迷うことなく入門を決めた。

「空手は自分との闘いです。相手もいますが、技をいかによけて反応できるか、自分の反射能力の問題になります。そこが魅力ですね。もちろん海外へ行った時の護身にもなりますが、それよりも身のこなしが軽くなる感覚があります」

稽古では、若い道場生と同じメニューをこなす。「歳だからと手加減されたり、組手で息が切れて、小井師範に休むように指示を受けた時は、正直悔しいですね」と苦笑する宮尾さんは、すべてにおいて全力を尽くす闘うドクターなのだろう。
現在は、長野県の病院で働いているが、週末になるとわざわざ都内へ戻って来て品川道場で汗を流している。「小井道場は、ここにしかないですからね。道場の仲間に会うと、みんな兄弟みたいな感じで、ホッとします。体だけではなく、心もほぐれていきます」と満足そうに笑った。まだ青帯だが、将来は黒帯を目指している宮尾さん。63歳の彼の闘いは、国内外で長く続きそうだ。


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【カラテトランスフォーマー】vol.06 末田実さん~ガンを克服した63歳のタクシー空手家

品川港南口道場には、稽古中に元気な気合いの声を発しているシニアの道場生がいる。
とくに目立つのは、今年で63歳になる末田実さんだ。
末田さんは高校を卒業後、工場に勤務し、建築関係の会社を経て、37歳の時にタクシー運転手に転職した。現在、その道25年のベテランドライバーとして、都内の港区界隈を自分の庭のように把握していると言う。そんな元気印の末田さんが空手と出会ったのは、高校1年生の時だった。

「私は大分県の出身で、高校の時に福岡県へ引っ越しをしました。中学生の頃はバレーボールをやっていたため、高校1年生の最初の時にすぐに入部しました。でも、近所の知り合いに空手をやらないかと誘われて、バレーボール部を辞めて始めることになったんです」

幼少の頃に両親が離婚。母子家庭で育つ5人兄妹の長男で、活発な少年だったようだ。
福岡へ引っ越してきた時は、母親の務める会社の社宅で暮らし、近所で空手を習っている30歳くらいの男性と知り合った。その男性から、末田さんが高校1年の夏に道着を手渡され、「空手をやらないか?」と誘われたと言う。それが、すべての始まりだった。家の近所に極真空手の道場はなく、拳心館という空手道場の門を叩くこととなる。

「もう40年以上も前ですから、やっていることはメチャクチャでした。元気がよすぎる若者も道場に通っていて、顔面を殴ってくるし、何人も倒されていましたね。先生に『よし次!』と言われる度に、みんなが目を合わせないようにしていました。私は負けず嫌いでしたから立ち向かっていきましたが、先生から『あまりやりすぎないように』と注意されて、最後はグローブをつけてその若者たちと殴り合っていました」

高校を卒業した後は、自然と空手からも離れてしまう。それでも空手への情熱は残り、大山総裁の修行時代を題材に綴られた小説「風と拳」などを読んで目を輝かせたこともあった。道場へ足を運ばなかったのは、「巡り合わせが悪かったからでしょう」と振り返る。 都内の大森に住んでいた末田さんは、たまたま品川の都営住宅の抽選に当たり、2年前に引っ越してきた。そこで目に留まったのは、新極真会東京ベイ港支部の看板。自宅の横に空手の道場がある。しかも、憧れていた新極真空手の道場を見つけ、胸に熱いものが込み上げてきた。

60歳を過ぎていたが恥を覚悟で見学へ行き「もう歳なんですけど、大丈夫ですか?」と不安そうに尋ねると、意外にも小井師範は「大丈夫です」と温かく迎え入れてくれた。武道に年齢制限はない。末田さんは、それを痛感したことだろう。
いつも元気な末田さんだが、じつは胃ガンと大腸ガンが見つかったことがある。胃ガンは5年前に発覚したが早期だったため、除去に成功。大腸ガンは、昨年10月、胃ガン手術の経験があったことから念のために大腸を検査し、そこで発覚した。どちらも早期だったことが幸いして、除去に成功している。

「本当によかったです。検査を勧めてくださった病院の先生に感謝しています。元気でいられることが、本当に幸せですね。2ヵ月間、治療とリハビリのために稽古を休むことになりましたが、こうして復帰して空手をまた元気にやれることに感謝しています」

末田さんの気合いは、空手への感謝の気持ちの表れだったのだろう。65歳までは空手を続けたいと恥ずかしそうに笑ったが、その横顔からはまだまだ現役の決意が伝わってきた。


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【カラテトランスフォーマー】vol.05 イムラン・スィディキさん~35歳で空手を始めた英会話校長の野望

 麻布十番道場で稽古している36歳のイムラン・スィディキさんは、父親がパキスタン人、母親が日本人のハーフ。日本で生まれ日本で育ったが、インターナショナルスクールに通っていたので英語に精通しており、現在、都内の麻布十番でコペル英会話教室を開校している。
「うちでダメなら英語は諦めて下さい」をキャッチフレーズに掲げている同校は、丁寧で理論的な授業が好評で、生徒は大人と子供を合わせて300名近くに上る。

 英会話を苦手にしている日本人が多い現状について、「英語を話すことを恥ずかしがって、試さない人が多いように思います。中学・高校の6年間、英語を習っているため、話せないことにコンプレックスがあるのかもしれません。試す前に完璧を目指して習得しようとする傾向がありますので、そこが壁になっているように思います。学校で英語を習った土台はありますので、誰でも上達できる可能性があるはずです」とイムランさんは語る。習って、試す、そして上達していく過程は、空手と通じるものがあるのかもしれない。

イムランさんが2011年11月から麻布十番道場に通うようになったキッカケは、愛息のユースフ君(5歳)がすでに入門していたことや、「いつも教える立場なので、教わる立場の気持ちを知る上で興味があった」からだと言う。

実際、東京ベイ港支部の小井師範の指導法は勉強になるようで、「下突きのイメージをボウリングの球を投げるようにと言われていて、とても参考になりました」と証言する。教える立場と教わる立場。どちらの心理もわかれば、上達させるための大きな武器となるのだろう。

空手との出会いは、イムランさんが中学生の時まで遡る。父親の友人に勧められて、フルコンタクト空手を習い始めたことがファーストコンタクトだった。だが稽古内容が厳しく、また自宅がある都内の白金高輪から神奈川県の川崎までの遠距離を通っていたこともあり、次第に足が遠のいていった。

やがて自宅近くの伝統派空手の道場へ通うようになるが、長続きはしなかった。そうして空手への思いが薄れていく中、何十年かの月日が流れ、奇遇にも息子が友人の紹介で始めるようになる。忘れかけていた空手への興味が再燃してきたイムランさんは、息子の稽古を見学することに。この時に小井師範の丁寧な指導を見て、「心のこもった教え方をされていて感動しました」と入門を決意した。

入門して2回目の稽古の時には中学生と組手をすることになり、自分の攻撃がまったく当たらないことに衝撃を覚える。それは、空手の奥深さを体感する瞬間だった。それからイムランさんは、毎週火曜日、レッスンの都合をつけて(強引に?)麻布十番道場へ足を運んでいる。無理をしないで、楽しく学ぶ。英会話を学ぶことと同じように、自らも心地よい距離感で空手と付き合えるようになった。

趣味でフットサルもやっているが、こちらは半年に1回程度の活動なので、空手をすることが一番の楽しみ。稽古で大声を出すことも新鮮で、健康だけではなく仕事にもいい影響があるのは間違いない。

現在は青帯で、今年2月の総本部交流大会に出場して、初めて試合を経験した。残念ながら一回戦負けとなったが、次につながる大変貴重な経験をさせてもらったと語る。

将来についてイムランさんは、「空手は一度、どんな大会でもいいので優勝してみたいです。あとは、東京ドームで英会話のセミナーを開いてみたいですね」と壮大な野望を語った。

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【カラテトランスフォーマー】vol.04 西山英史さん~本当の強さを見つけるために

赤坂で歯科医院を開業している西山英史さんは、昨年10月にオープンした東京ベイ港支部赤坂道場の第1号の道場生だ。年齢は現在、44歳。空手をスタートする年齢としては、決して早いほうではない。それでも西山さんを突き動かしたのは、なんだったのだろうか。

「小さい頃から、空手に憧れがありました。でも、中学・高校は空手部がなかったんで、他の部活に熱中し、全国大会にも出場しました。強豪校だったので、練習はとても厳しかったことを覚えています。大学時代は歯科医になるための勉強で多忙でしたので、空手とは縁がなかったのかなと思うようになっていきました」

何回か空手の道場を見学することはあったが、独特の雰囲気に馴染めず、入門を決意するまでには至らなかった。ケンカに強くなりたいわけでも、大会で活躍する選手を目指すわけでもない。ただ、自信をつけること。その目的だけでは、敷居が高かった。

アメリカで歯学の勉強をしている時も、その気になればボクシングや総合格闘技など他の競技を学ぶ機会はあったようだが、空手しか興味がなかった。それは道を追求することが、真の強さを得られることと信じているからだと言う。

帰国後、空手からは遠ざかってしまったが、赤坂へ西山デンタルオフィスを開業した。じつは、その時も自宅近くの空手道場を見学したが、やはり雰囲気に戸惑い、入門を断念している。運動は、フィットネスジムで続けていたが、「私は、これをやっていますという軸がほしかったんです」と空手への思いは月日とともに膨らんでいった。

再び、空手の引力に吸い寄せられたのは、赤坂道場の入会案内が、自宅とオフィスにそれぞれ届いてから。二つの入会案内を並べ、「運命を感じました」と苦笑する。オフィスから歩いて、わずか数分のところに空手道場がある。西山さんが勇気を出して道場へ足を踏み入れると、小井師範と谷口先生が優しく迎え入れてくれた。「小井師範は、初めて会った私なんかにも、とても丁寧に対応をしていただきました。谷口先生も明るく素敵なかたで、見学したその場で入門を決めました」と西山さんは、当時を振り返る。

ダムが決壊したように空手への思いが爆発した西山さんは、通える時は、週2回も道場で汗を流すようになる。もちろん経理・人事・社長業・技術者といった何役もこなさなければならない歯科医院は激務で、それに加えて学会や講演の準備、専門誌への執筆なども行なっている。それでも空手をする時間だけは、確保しているからさすがだ。

「フィットネスジムで走っていると、つい仕事のことを考えてしまいます。でも空手をやっている間だけは、仕事のことを忘れることができるんです」

 日々の生活の中で、リセットすることは大切だ。空手の稽古でストレスを解消し、リセットする時間も同時にできているのだろう。唯一の心配は、ケガだと言う。手先の細かい作業が要求される歯科医は、手や腕を負傷したら業務に支障が出る可能性もある。同じ歯科医の妻も、それは心配しているらしいが、当然のことだろう。

「広井先輩には、よく稽古で使う拳サポとは違い、指が覆われているグローブタイプのサポーターを勧めていただきました。初対面の私なんかに、丁寧にご指導いただけるなんて、とても驚かされました。強くなると周りに優しくなれるといいますが、小井師範、谷口先生、広井先輩や道場の先輩方は、みなさん気配りのできる優しい方ばかりです。自分も、空手をやっていると胸を張って言えるような人間に、早くなりたいですね」

 父親は、ある出版社の経営者。長男の西山さんが後を継ぐのが自然の流れだが、あえて歯科医の道へ進んで開拓者となったのは、強さへの憧れがあったからに違いない。 取材した時にもらった西山デンタルオフィスの名刺には、「―すべての歯科治療に審美を―」と書かれていた。審美とは、「自然や美術などの持つ、本当の美しさを的確に見極めること」である。美しさを極める。その道は、空手に通じるものがあるのかもしれない。

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【カラテトランスフォーマー】vol.03 谷口亜翠佳先生~目指すは、空手の三冠王

いつも明るく朗らかに、東京ベイ港支部で小井師範をサポートする谷口亜翠佳先生は、28歳の時に新極真会の門を叩いた。幼少の頃に剣道を習っていたことはあったが、空手とは無縁の生活を送っていたという。それにしても、なぜ28歳にして空手に目覚めたのだろうか。キッカケを聞くと、その経緯に驚かされる。

「友達がスノーボードやスキーとかで盛り上がっている時に、私もスノーボードにはまっていきました。もともと趣味で始めたことだったのですが、良いのか悪いのか、負けず嫌いな性格も手伝ってか、何となく当たり前のように毎週土日は必ず山へ行くようになったんです。一回、始めてしまうと止まらなくなってしまう性格なので、インストラクターの資格まで取ってしまいました。」

 仕事は、18歳から関わってきたコンタクトセンターの会社で働いていたが、週末ボーダーとしての顔も持っていた。「当時は、いつ休んでいたんだろうって感じでした」とまるで他人事のように笑い飛ばすが、行動力はパワフルだ。問題はオフシーズンの過ごし方。さらにスノーボードを極めるためには、オフシーズンの体力強化が必要となる。そこで浮上したのが、じつは空手だった。

「昔剣道をやっていたので、同じく武道をやろうと思いました。周りの方に相談したところ経験者がいたこともあり、『空手がいいんじゃない?』と勧められ、見学することになったんです」

 調べていくうちにフルコンタクトとノンコンタクトがあったが、どうせやるならとフルコンタクト空手を選択。新極真会の総本部道場へ足を運ぶこととなり、見学当日に入門を決意。スノーボードの強化の一環としてスタートした空手だったが、気づけばその魅力にはまっていった。もともと才能があったのか、メキメキと頭角を現し、型の試合で上位に入るようになっていく。2008年に開催された第15回長野県大会の一般の部で優勝すると、2009年のカラテドリームカップでは一般女子で準優勝。それ以後も、型のトップ選手としての地位を築いていった。  スノーボードから空手中心の生活へ変わり、東京ベイ港支部に所属してからも、現役選手と指導員の二つの顔を持つようになる。納得できるところまでやり抜く性格が功を奏したのか、型だけではなく組手の強化にも取り組み、2012年のドリームカップでは、全国大会では史上初となる型と組手の二冠王に輝いた。次なる目標は、全日本の舞台での活躍になるが、きっと今後も納得するまで突き進むことだろう。もちろん、指導についても真剣に取り組んでいて、支部の発展に少しでも貢献したいという思いも強い。

「指導では、小井師範から沢山のことを学ばせて頂きながら、自分が出来るアシスト、自分がやるべきことを考えながら毎回稽古に出ています。子どもを叱らないとならない場面でも“何故、この子はこのような行動を取るのかな?”と瞬時に色々と考えます。子どもは表現力がまだ少ないので、きっと何か理由があるのではないかな?とまずは、その子の立場、考えをくみ取るよう心がけています。私は、まだ子どもを育てたことがないので、その立場をわきまえながら、叱るべき時はしっかりと。楽しむ時は思いっきり一緒に楽しんで笑いあう。保護者の皆さんはもちろん、子どもたちからも逆に教わるつもりで指導をさせていただくようにしています」

 二冠王となった谷口先生が目指すのは、全日本だけではなく、指導員としてのスキルアップ。三冠王になる日は、そんなに遠い未来ではないのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.02 広井孝臣さん~43歳のリスタートーー遅咲きの青春~

 広井孝臣さん(44)は、幼少の頃に伝統派空手を習い、高校生の時には少林寺拳法を経験。より実戦に近い武道を求めて極真空手の門を叩くなど、強さへの憧れが強い青年だった。ところが、黄帯を獲得後、社会人となり大阪へ赴任してからは道場から足が遠のいてしまう。   それから20年――。子供(娘)も大学生になり、石油会社の製油業務部長としての地位も得た。少しずつだが生活にゆとりが出てきたところへ、自宅の近くに東京ベイ港支部(当時=品川小井道場)がオープンしたニュースが飛び込んできた(2010年)。空手の道を断念したことが、大きな後悔として残っていたのだろう。忘れ去られていた、熱い思いが込み上げてくる。広井さんは、小井泰三支部長の携帯へ連絡を入れて体験入門の許可をもらう。懐かしい思いとともに道場へ足を踏み入れると、小井支部長の丁寧な対応に驚いたという。

「指定した日に道場へ着いたら、『よくお越しいただきました。お待ちしておりました』と言っていただいたんです。そんなことを言って出迎えていただける先生は、なかなかいません。普通は、近くにいた道場生が対応してくれて、『こちらで見ていてください』と案内されるものです。それなのに、先生が案内してくれて、しかも『お待ちしておりました』なんて言ってくれるわけですから、これには驚きましたね」

 広井さんは、すぐに入会を決意する。最初は趣味程度に再開したつもりだったが、気づけば週3回も稽古に参加する常連になっていく。まるで学生の頃に戻ったかのように、稽古に明け暮れることが多くなっていった。級位も順調に上がり、シニアの大会にも積極的に出場。たまに通うスポーツクラブではウエイトトレーニングもこなし、最強への道を再び追いかけることとなる。ここまで没頭して、はたして仕事に支障はないのだろうか!?

「会社の同僚には『週3回も空手を習うサラリーマンはいないだろう』って、よく言われます。前日の夜にミット打ちを10ラウンドもやると、さすがに次の日は体が重いですけど楽しいです。今、石油製品の需要が落ちてきて業界は厳しい時期なんですが、ミットを思い切り叩くとストレスが発散できるし、そうした不安を吹き飛ばせるような気がします」

 大会の翌日は、必ず、休暇をとって仕事を休むようにしている。試合の疲れを抜くこともあるが、「なにかがあったら会社に迷惑をかけるので」というのが理由だ。仕事が忙しくて残業が続く時は、「途中で抜け出して稽古をしてから戻る」なんて離れ業をすることもあるそうだ。いずれにしても、仕事と空手のバランスをうまくとっているのだろう。 また、空手の経験値があるため、道場では相談役的な立場にもなっている。

「シニアの中でも年齢的には高い方だし、ほかの会員のみなさんよりも空手の経験値があるからでしょうね。30歳を越えてから空手を始めた人も多いので、そういう人たちをリードしたいという思いもあります。だから支部で最初に黒帯を取って、大会で優勝したいですね」

 空手をリスタートして約1年半。遅咲きの青春が、満開になる日は近い。


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【カラテトランスフォーマー】vol.01 西畑誠さん~「メタボ対策」から「生涯修行」へ~

西畑誠さんが東京ベイ港支部(当時は「品川小井道場」)に入門したのは、道場がオープンしたばかりの2010 年。20 代の頃に在籍していた福岡支部の師範である緑健児代表の勧めで、約10 年ぶりに道着に袖を通した。目的は「メタボ対策」だったという。

「社会人になってからは運動をほとんどしていなかったので、完璧に体がなまっていました。定期的に何かやりたいと思っていましたし、リフレッシュのためにもいいかなと思って入門したんです。他の道場は90 分のクラスが多いんですけど、ここのゼネラルクラスは60 分だったので、それならやれるかな、という考えもありましたね(笑)」

 そうして週1 回、品川港南道場の土曜日のクラスに通うことに。やがて会社(六本木ヒルズ)の近くに麻布十番道場ができたため、火曜日も仕事を早めに切り上げて道場に足を運ぶようになった。

「10 年のブランクは不安でしたけど、無理のない稽古内容なのですぐに馴染めました。むしろ以前より体力がついて、ハードワークをしても疲れなくなりましたし、営業などのフットワークも軽くなりました。道場には30 代、40 代、50 代、60 代といろいろな世代がいるので、人生勉強になりますし、新たな人脈が仕事に生きたりもしています。これは普通のスポーツジムでは得られない、武道の道場の良さだと思います」

 日本の大学を卒業した後、アメリカに留学した西畑さんは、25 歳の時にシアトルで空手と出会っている。海外で学ぶ日本の文化は新鮮だった。武道の魅力にとりつかれ、26 歳で帰国すると、地元福岡で新極真空手の門を叩いた。そこで出会ったのが、アメリカで映像を見て憧れていた緑代表。1 年半後、東京での就職を機に道場を離れたが、緑代表との交流は続いた。ヤフー→アップル→グーグル(現在)と転職しながらキャリアアップしていく中、仕事として自然に新極真会をバックアップするようになる。仕事一筋だった10 年間も、空手家たちの生き方や哲学にはポジティブな影響を受け続けていた。
 東京ベイ港支部入門から1年半後の2012 年2 月、ついに試合に出場。第2 回首都圏交流大会で初戦突破に成功した。福岡時代の戦績は1 戦1 敗だったから、10 年越しの初勝利だった。続く二回戦で敗れたが、そこには初めて味わう達成感があった。

「試合に向けての稽古はキツかったんですけど、また出たいとすぐに思いました。二回戦の相手が110 ㎏もあったので、今度は軽量級で出ようと思って減量しています。年に一回の試合、それと昇級審査が今の目標ですね」

 モチベーションの源泉は、もう一つある。ほぼ同時期に入門した息子、馨君の存在だ。

「週末は子供と一緒に道場に行って、それぞれのクラスで稽古をして帰ってきます。家でも蹴りを教えてあげたり、軽い組手をやってみたり。親子で同じものに取り組むのは楽しいです。子供はどんどんうまくなっていきますから、自分も負けないように黒帯を目指して、黒帯になってからも稽古を続けて、生涯空手をやっていきたいですね」


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