【カラテトランスフォーマー】vol.20 関かかりさん~空手という名のアート

プロフィール写真を見て、笑顔の関かかりさんの右側に写る“顔”が気になった方も多いのではないだろうか。一見すると人形のようだが、じつはれっきとした人間。刈り上げられた女性の後頭部に、関さんの似顔絵が描かれている、という構図だ。     

後頭部の人物は若木くるみさんという美術家で、2009年の『第12回岡本太郎現代芸術賞』では、グランプリにあたる岡本太郎賞を受賞している実力派。彼女は246kmのマラソン大会『スパルタスロン』や、山中を走る『トレイルランニング』に参加するなどアスリートとしての顔も持ち、芸術とスポーツを融合させた斬新な試みを数多く行なってきた。写真は2014年に兵庫県で展覧会が行なわれた約2ヵ月間、若木さんが後頭部に毎日違う人物の顔を描き、後頭部の人を世界各国の旅へお連れする「葉っぱを求めて三千里」という作品で、ゴール地点の展覧会場に戻ってきた時の一枚。長い旅のフィナーレを飾る似顔絵が、キュレーションをしていた関さんだったというわけだ。     

もともと絵を描くことや物づくりが得意だったことから、京都市立芸術大学へ進学した関さん。学生時代は自身も“アーティスト側”にいたが、「大学の中でもこの人はすごいな、才能があるなと感じる人が何人かいるんです。時間が経つにつれ、自分が制作をすることより人が生み出す作品をどうやったらうまく世に出していけるか、というほうに興味が湧くようになりました」。大学卒業後、京都のアートギャラリー勤務を経て、2009年から実家のある東京へ戻った。現在は美術館の職員として、所蔵作品の貸し出しや現代アートイベントの企画などを担当している。前述した若木さんをはじめ、アーティストとは仕事をともにする機会も多い。

「私はアートの世界しかあまり知らないんです」と語る関さんと空手の接点は、ある偶然から生まれた。2015年12月、知人が主催した飲み会に参加したところ、店に遅れて現われたのが、カラテトランスフォーマーvol.1に登場している西畑誠さんだった。この日が初対面だった西畑さんは、やたらと体格がいい。聞けば、極真空手の道場に通っていて、飲み会に遅れたのも稽古があったからだと言う。ちょうどこの時期、次第にふくよかになっていく自身の体型を気にしはじめていた関さん。漠然と運動をしなければと思ってはいたものの、元来痩せ型で一度もダイエットをしたことがなく、何をすればいいのかわからなかった。そんな時に飛び出した「空手」というワード。「体験はできるんですか?」「できますよ」「女性はいらっしゃるんですか?」「たくさんいます。女性の先生もいますよ」「一度体験しに行ってもいいですか?」――。トントン拍子に話は進んだ。

「最初は『えらいところに来てしまったな』と思ったんですけど、見よう見まねで突きや蹴りを出したら気持ちがよくて、すごく楽しかったです。それに、亜翠佳先生はすぐに私の名前を覚えてくださって、道場の女性陣も気さくに話しかけてくれました。最初の印象がよかったことが大きいと思います」

関さんはその日のうちに入門を決めた。同性で年齢も近い谷口亜翠佳先生は、女性ならではの力の出し方などを教えてくれ、週1回の型クラスでは手取り足取り指導をしてくれることもある。また、「最初にお会いした時は絵に描いたような『空手家』という印象で、オーラがすごかった」と語る小井泰三師範は、前回の稽古からよくなった部分をきちんと見てくれていて、それが次の稽古への活力となった。小井師範と谷口先生がつくり出すアットホームな空気に居心地のよさを感じ、さまざまな職種が集う東京ベイ港支部道場生との会話を楽しみながら、関さんは週2回のペースで道場に通った。そして空手の世界に触れたことは、関さんの中に眠っていたある感覚を呼び覚ますこととなる。     

「今の私の仕事はアーティストと展覧会やプロジェクトに向け、作品にとって良い展示になるようにともに考え、実施に向けて調整します。これまでも大学卒業からはずっと、人のために何かをするという生活が当たり前になっていました。もちろん、そこにやりがいを感じていますが、自分のために行動する機会がなくなっていたことに気がつきました。大人になってから何かを学び、稽古をしたことが自分の身になっていることを実感できるのは、すごく新鮮で楽しいです。大人になると、試験を受ける機会もなかなかないですよね。昇級審査の時はすごく緊張しましたが、『この緊張感って久しく味わっていなかったな』と思いました」

緊張した場面を回想しているにも関わらず、関さんはどこか楽しそうだ。入門から2年が経過し、日々の稽古が目に見える形で成果となって表われていることも、その理由だろう。帯の色は白からオレンジへと変わり、現在は青帯を締めている。また、体が絞れたことで体重は3~4キロ減り、ダイエットという当初の目標は達成した。しかし、「今は体を動かすことが楽しくて、空手をしていないと体がムズムズするんです」と語るように、空手を続ける目的そのものにも変化が生じはじめている。そんな関さんに現在の目標を訪ねると「横蹴りを綺麗に蹴りたい」という答えが返ってきた。     

「亜翠佳先生に毎週教えていただいているのですが、私は股関節が硬いので横蹴りが全然上がらないんです。同じクラスに来ている若いお嬢さんは、体がやわらかくて横蹴りがスムーズに綺麗に上がるんですよね。一緒に型を教えてもらう時は足を引っ張っちゃいけないなと思うと同時に、いつも自分の不甲斐なさを痛感します。亜翠佳先生は繰り返すことが大切だとおっしゃっていたので、がんばらなければいけないですね。組手でも型でも、帯が上の方になるほど動きがすごく美しくて、いつも見惚れてしまいます。他の方を見ていると、空手って美しいなと思います」

長年、アートの世界に身を置いてきたことがそうさせるのか、関さんからはまるでひとつの作品を批評するように、どこか俯瞰で自身を見ているような印象を受けた。関さんの目に映る『空手家・関かかり』は、まだまだ不満だらけの出来なのだろう。いつの日か、芸術作品のような美しい蹴りが放てるように――。

大好きな仲間に囲まれた道場で、関さんは今日も自分自身という作品を磨き続けている。


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【カラテトランスフォーマー】vol.19 今村章太郎さん~「人間力」あふれる税務のスペシャリスト

35歳の若さで『今村章太郎公認会計士・税理士事務所』の代表を務める今村章太郎さんと空手の出会いは、監査法人に勤めていた2010年にさかのぼる。当時、仕事と並行して通っていたビジネススクール(キャリアコンサルティング主催)は新極真会と親交があり、企画の一環として道場に体験入門することとなった。オープンしたばかりの品川小井道場(当時)で初めて空手を経験した今村さんは、すぐにその魅力に惹かれることとなる。

「その時は基本稽古とミット打ちをやったんですけど、うまくミットが蹴れた時の快感や、体が“ハマった”時の感覚がおもしろかったです。もともと体を動かすのが好きだったこともあり、すぐに入門しました。小井師範は一人ひとりのレベルに合った教え方をされていて、すごくわかりやすかったです。明るく盛り上げていただけるのでやっていて楽しかったですし、もちろん今もすごく楽しいです」 

そう語る今村さんの笑顔からは、どんな言葉よりも雄弁に空手や小井道場への愛が伝わってくる。中学時代は野球部、高校時代はラグビー部に所属。もう一度何かスポーツを始めたいと思っていた矢先、28歳で出会ったのが空手だった。ただ、「まさか自分が格闘技をやるとは思わなかった」と振り返る今村さんにとって、未知の世界へ飛び込む決め手となったのは、小井師範から伝わってくる「人間力」だったという。体験入門の際、小井師範が話した内容が今も記憶に残っている。

「小井師範から最初に教えていただいたのが、『押忍』という言葉の意味でした。気持ちはつねに押して前向きに。それでいて、一歩引いて忍ぶ謙虚な姿勢を持つ。つまり、心の在り方ですよね。なるほどな、奥が深い世界だなと感じました。私が通っていたスクールは人間力を高めることがテーマだったので、それもあって小井師範はそういうお話をされたのかなと思います」

空手の真髄に触れ、道場で人間力を養った今村さんは、2012年に税理士事務所に転職。約4年間の実務経験を積み、2016年に独立した。多忙な日々の中、道場には週1回通うのがやっとという状況。3年前に結婚して子どもが生まれたこともあり、満足に顔を出せない時期もあった。それでも空手を続けられたのはなぜだったのか。

「おそらく、小井師範のもとでなければここまで続いていなかったと思います。さすがに1ヵ月半くらい期間が開いてしまった時は、道場へ行くことに引け目を感じました。でも、小井師範はそんなことを全然気にされないんです。『過去は忘れて先のことを考えましょう』とおっしゃっていただいて、すごく気持ちが楽になりました」

今村さんにとって道場とは「自分をリフレッシュできる場所」。机に向かうことが多い仕事柄、「空手をやらないと肩もこりますし、溜まったフラストレーションを道場で発散することでバランスが取れています」と語る。また、「普段、仕事では出会えないような職種の方とお話ができる環境も、すごく魅力的だと思います」と、道場でできた仲間の存在も今村さんの支えとなっている。現在、黄帯を締める今村さんだが、視線の先には大きな目標があった。

「同時期に入門された方はどんどん上の帯にいっているんですけど、私の場合は細く長く続けていって、その先に黒帯があればいいなという感じですね。独立して自分で時間をコントロールできるようになった分、また定期的に道場へ通えるようになってきたので、機会を見て試合に出たいという気持ちもあります」

この取材が行なわれたのは、今村さんのように対個人事業者がメインの税理士がもっとも忙しくなる、確定申告を控えた2月上旬。それでも「税金やお金について不安がある方も多いと思いますが、そういった方にわかりやすく説明して理解をしてもらえると、だんだん安心してお客様が笑顔になるんです。ひとりでも多くの方を笑顔にしたいですね」と語る今村さんの表情は、イキイキとしていた。

 家族を養い、社員を養い、顧客を笑顔にする。柔らかい雰囲気の中に信念が垣間見える35歳からは、たしかな人間力がにじみ出ているように感じた。それはもしかすると、かつて今村さんが小井師範に感じたものと似ているのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.18 後藤夏樹さん~会社経営者は空手を日常にする

「会社は、午後7時半で強制退社です。残りの時間を充実させてほしいと、いつも社員に言っています」

 東京ベイ港支部に通う後藤夏樹さんは、2003年に創業された株式会社エス・エム・エスの代表取締役社長を務めている。同社は介護・医療・キャリアの分野を中心に、40を超えるサービスを展開。資本金は21億5252万円、2016年3月期の売上高は190億6910万円を計上し、右肩上がりの成長を続けている。社員数は連結で1714人を数え、高齢化が進む日本において同社への需要はますます増加していく一方だ。

会社経営の多忙な生活を送る中、後藤さんは「社員に充実した生活を送るようにと言っておいて、自分が何もしない訳にはいかないでしょう」と2年3ヵ月前から東京ベイ港支部に通うようになった。なぜ、空手を選んだのか? 後藤さんは、少し恥ずかしそうな表情を見せつつ空手との関わりを語り始めた。

「じつは、僕が16歳、高校1年生の時に3年間、空手を習ったことがあったんです。高校はテニス部に所属していたんですけど、レッスンは月・水・金の週3日のみ。火・木に何か体を動かすことをしようと考え、たまたま仲の良かった友人が空手を習っていたので僕も始めることにしました」

後藤さんが足を踏み入れたのは、極真カラテの名門・城南支部。フルコンタクト空手のトップ選手が揃う稽古は、過酷そのものだった。「道場は殺伐とした雰囲気で、組手はライバル意識が強く、いつもガチンコでした。週2回通っていましたが、週1回、月1回とだんだん足が遠のいていきました。最後は在籍するだけの幽霊部員のようでした」と当時を振り返る。入門当時から大会への出場を考えていたわけではないため、他の道場生との温度差があったのだろう。

映画制作の仕事に関わりたいと考えていた後藤さんは高校卒業後、東京工芸大学へ進学する。この時に、高校時代の仲の良い友人が中央大学で大道塾空手の同好会を主宰していたため、1年間のみ、たまに参加していた。空手との接点はここまでで、東京ベイ港支部へつながるまでに約20年間の空白ができてしまう。その20年間の入り口は、破天荒な人生の幕開けとなった。

「大学の卒業が近づくと就職活動をし、小さな制作会社の内定をもらっていたんです。でも、そのまま就職するのはつまらないと思うようになってきまして、たまたま日本で知り合ったアメリカ人から『アメリカで映画を撮っているので興味があったら来ない?』と誘われて行くことにしました。その人の家に居候をさせていただき、映画制作活動を始めました」

ニューヨークの小さな映画祭に制作した作品を出展するなど精力的に動いていたが、ある日、知り合いのアメリカ人から「オランダのアムステルダム映画祭に出展するので、ついて来ないか?」と誘われた。さすがにそれは断り、アメリカへ残ることに。もともとビザ取得のために、ニューヨークの市立大学に籍を置いていたため、学業を真剣に学ぶようになっていった。生活費が必要になり、アメリカで仕入れた商品を日本で売るためのオークションサイトを立ち上げ、生活の足しにしていたこともあった。 

大学院へ進んだ後藤さんは、2年間、ビジネススクールに通いつつオークションサイトで得た利益を学費と生活費に充てた。それをキッカケに商売を始めることはなく、大学院を卒業すると日本へ帰国。アイ・ビー・エムビジネスコンサルティングサービス株式会社(2010年、日本IBM株式会社に統合)に就職する。27歳の時だった。理由は、「日本の社会・組織を知りたかった」からだと言う。同社には約3年在籍したが、その後に日系コンサルティングファームで1年働き、今後の自分の人生について考えるようになっていった。

「父親が上場企業の役員でずっと背中を見てきましたが、日本が高度成長期の時とは違い、僕らの時代は成長する産業が限られてくると思いました。経済成長が止まると予想して、ピンポイントで成長領域に入ろうと思ったんです。その時に、情報、高齢社会、教育をキーワードにしてこれから伸びそうな企業を探して、今の会社に入社しました」

2007年、入社した株式会社エス・エム・エスは、創業者が広い視野の持ち主で「会社を永続的にするためには世襲制などを排除して、後継者にバトンを渡す」という考えを実行に移し、後藤さんが選ばれることとなった。

3年前に創業者から襷(たすき)を受け取り社長になると、やがて時間のコントロールができるようになってくる。妻がバレリーナで活動的なこともあったのか、仕事しかしていない夫を見て、ネットで空手道場を検索。「ここに行ってきたら?」と東京ベイ港支部を勧めてきたと言う。昔の怖さをどこかで引きずりつつ見学へ向かった後藤さんは、小井師範や谷口先生の丁寧な指導とフレンドリーな道場の雰囲気に触れて、その場で入会を決意して白帯から空手を再開することに。入会翌年には新極真会の第5回総本部交流(現=練成)大会に出場して、組手・シニア30男子軽量級ルーキーで優勝をはたした。

「最初は優勝できてよかったんですが、その後は調子に乗って苦難の連続です。肋骨を折られるなど、1回戦負けが続き、ボロボロにされています。でも、不思議と昔のように嫌にはなりません。やったことがないことに飛びつくと刺激になって視野が広がっていきますし、非日常を続けると日常になってきます。空手は、その総量を増やしていくための潤滑油ですね。できれば、これからもずっと続けていきたいです」      

稽古後に後藤さんは黄帯を締め直すと、汗を拭きながら満足そうな笑顔を見せた。


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【カラテトランスフォーマー】vol.17 米澤元樹さん~脳神経外科医が目指す理想の空手家

信州大学に通っていた米澤元樹(よねざわ・もとき)さんは、平成12年から18年の6年間、医者を目指しつつ極真会館長野支部(現=新極真会長野支部)に所属して空手を習っていた。

「高校では柔道を習っていたんですけど、格闘技が大好きで空手をやりたいと思っていました。本当は高校を卒業してすぐに空手を始めたかったんですが、27歳で医学部に入ったこともあり、受験勉強が忙しくてなかなか入門することができませんでした。そして大学入学と同時に、ようやく長野支部で空手の門を叩くことができたんです」

長野支部は藤原康晴師範をはじめ、先輩や仲間たちが優しく接してくれて、水が合っていたようだ。大会にも出るようになり、やがて初段へ昇段。全日本ウエイト制大会に出場できるほど実力が上がっていき、文武両道を極めつつあった。

そんな時、ターニングポイントが訪れる。大会を観戦していた米澤さんの近くで観客同士のちょっとしたトラブルが起こってしまう。すると関係者が割って入り、すぐにその場を収めた。迅速かつ的確な対応をしたその関係者の行動力を見て、感動するとともに興味を持つようになった。

“あれだけ興奮していた観客を丁寧になだめて落ち着かせた、あの凄い人は誰なんだろうか……?” 米澤さんが興味を抱いたその人物こそ、のちに東京ベイ港支部を創設することになる小井師範だった。

「新極真会の機関誌『空手LIFE』を読んで、小井師範の経歴を知りました。元商社マンで、全日本ウエイト制3位に入賞。新極真会の事務局長までやられている凄い方なのだと、その時に初めて知りました」

大学卒業後、東京の病院で働くこととなる。空手を続けたかったが、医者の仕事が多忙だったこともあり、新しい道場を探す時間が見つけられずに年月が流れていった。数年後、長野支部から、会費の引き落としが滞っていると連絡が入る。新極真会の会員登録(サポーター会員)はそのままにしていたため、年会費がうまく払われていなかったようだ。慌てて新極真会本部事務局へ連絡を入れると、これも運命だったのだろうか。たまたま電話をとったのが、憧れていた事務局長の小井師範だった。

2010年に道場新設の情報を事前に得ていた米澤さんは、思わず「自分も新しい道場に通わせていただいてもいいですか?」と小井師範に入門許可を申し出た。その一本の電話で、空手熱が再燃していった。

小井師範からの許可をもらった米澤さんは、黒帯に恥じないようにと自主トレを開始。2010年のオープンから数ヵ月過ぎた頃に、ようやく道場へ足を踏み入れた。

東京ベイ港支部へ通い始めた当初、迷っていたのは“黒帯を締めていいのかどうか”ということだった。5年の空白は、半年の自主トレで簡単に埋まるものではない。本当は白帯から始めたかったが、藤原師範からせっかくもらった黒帯を捨てるわけにもいかなかった。すべてを受け入れる覚悟で再び黒帯を巻いた米澤さんは、初心者にアドバイスするたびに“こんなに偉そうなことを言える立場ではないのに……”という思いと葛藤しながらの稽古再開となる。それでも稽古していると、忘れていた記憶が次々と蘇っていった。

「これまで選手として大会で活躍することを目指していましたが、社会人になり、東京ベイ港支部へ通うようになってから目標が変わりました。小井師範が昇段審査合格のリポートに書かれていましたが、『社会の中での空手家の役割』を自分なりに考え、どんな人とでも打ち解けて接することができ、忍耐強くなれるように精神修行をさせていただきたいと強く思うようになりました。小井師範の指導を受けた後、道場の仲間はみんな笑顔で良い気が出ています。東京ベイ港支部は、ストレスを発散しながら人生を学べる場所だと思いました」

長野支部では空手の基本を学び、そして選手としてのスキルや諦めない心を身につけてきた。選手を引退した今、東京ベイ港支部では空手家として、人としての生き方を学ぼうとしている。

「強い人間になりたいというのは、昔から変わりません。強さは知力と体力が備わることだと思いますので、今後も医者と空手の両立を目指していきたいと考えています」

これからも米澤さんは、憧れの存在の近くで多くの気づきを得ることになるだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.16 登坂英正さん~空手との素敵な付き合い方

「最初は子どもに武道を習わせたくて入門説明会に行ったんですけど、気が付いたら自分も習いたいと思うようになっていました」

 マンション開発のデベロッパー業を営んでいる登坂英正さん(42)は、そう言って微笑んだ。支部第一期生の登坂さんは、5年前の2010年、自宅のあるマンションに品川港南口道場がオープンすることを知ると、妻の勧めもあり長男の政守君(当時2歳)を連れて説明会に参加した。そこには、ママ友ならぬパパ友もいて、親子で空手を習うという。子どものため……だった説明会が、やがて「自分もやってみようかな」に変化していき、1週間、思案したのちに入門を決意する。学生時代は中学・高校とテニス部に所属し、大学生の時にはテニスのインストラクターのアルバイトを経験。体を動かすことが好きだったこともあり、初めて習う空手に対して抵抗はなかった。運動不足もあったため、タイミングもよかったのだろう。ほどなくして道着に袖を通した。

初めての空手に怖さはなかったのか? 登坂さんは、苦笑しながら次のように答えた。

「じつは、フルコンタクト空手のことは何も知らなかったんです。その頃は、極真という名前も聞いたことがあるくらいでしたから……。でも、それがかえって良かったのかもしれません」

 予備知識がまったくなかった登坂さんは、真新しい道着を着て稽古に参加した。そこで直接、技を体に当てることを知り、「えらいところに来ちゃったな」と驚いたと振り返る。だが、小井師範の道場生のレベルに合わせた指導方法が合っていたのか、怖さは思ったほど感じなかったという。それよりも、少しずつレベルが上がっていくことに嬉しさを覚えるようになっていった。

「組手稽古を始めた頃は30秒くらいで息が上がっていたんですけど、少しずつですが息が持つようになっていきました」

 37歳から空手を始めて5年間、一歩ずつだが強さを実感できる回数が増えていく。昨日よりも今日の方が、少しだけうまくなる。そうした日々の積み重ねを体感する瞬間が、もしかしたら空手の醍醐味の一つなのかもしれない。長男の政守君は休会中だが、父親は茶帯を取得し、2013年に行なわれた第3回総本部交流大会(組手・シニア40’s男子40歳以上~50歳未満 軽量級チャレンジ)では優勝を経験している。

「今は、大会出場を目指す道場生が中心のアドバンスクラスにも参加していますが、稽古前は怖くてブルーになります。でも、いつまでも逃げるわけにもいきませんし、背を向けるわけにはいきませんから勇気を出して参加しています」

 試合前も怖くて仕方がなく、対戦相手のデータを調べることはしないそうだ。それでも挑戦を続けるのは、「逃げたくない」という思いがあるからなのだという。

「自分の目標はつまらない答えかもしれませんが、いつか黒帯になれたらいいなとか、いつかどこかの大きな大会で優勝できたらいいなと漠然と思っています。それが自分なりの空手との付き合い方ですね」

 踏み込み過ぎず、離れ過ぎず。空手との絶妙な距離感を保つことが、登坂さんのスタイル。それは、長く続けるための秘訣なのかもしれない。

「師範からも『無理をしないで、長く続けることが大事です』とおっしゃっていただいていますので、気持ちを切らさないようにうまく空手と付き合うようにしています。周りへの気配りが素晴らしい師範がいるからこそ、こうして続けられているんだと思います」

空手を日常にしている登坂さんは、これからもマイペースで素敵な付き合い方をしていくことだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.15 趙さん~空手が与えてくれたもの

 澄(ちょう・ちょう)さんは、19年前にITエンジニアで夫の曹炬(そう・きょ、48歳)さんの仕事の都合により、日本へ移住した(※中国は夫婦別姓)。専業主婦として夫を支え、二人の子どもを授かるようになる。長男・曹沢浩(そう・たくこう)君は、体が大きく正義感が強い。二男の曹沢瀚(そう・たくかん)君は、無邪気で明るい性格のようだ。

趙さんは学生時代に陸上で短距離走・走り幅跳びなどに取り組んでいたため、体を動かすのは好きだった。区の健康診断ではメタボリックシンドローム、いわゆるメタボの注意を受けていたこともあり、「そろそろ運動をしないと……」と思っていたという。たまたま空手を習っている友人がいたが、自宅から道場までは遠く、通うには厳しい。そんな中、沢瀚君が通う学習塾で送り迎えをしている時に外で待機していると、隣の部屋を出入りする男性の行動が気にかかった。なにやらポスターを貼っている様子で、よく見ると“空手”“入門希望”と書かれた文字が目に飛び込んできた。その男性こそ、東京ベイ港支部(小井道場)の開設に奔走していた小井師範だった。

置いてあったチラシを手にとり、近日中にオープンすることを知る。運命の出会いとは、こういうことを言うのだろうか。二男の沢瀚君は風邪で熱を出すことが多く、長男の沢浩君は学校でイジメに悩んでいたことも後押しして、“私たちに空手は必要かもしれない”と心は大きく入門に傾いた。

2010年のオープン日。長男の運動会が終わると、三人は道場へ足を運んだ。小井師範が笑顔で出迎えてくれて緊張した気持ちがほぐれると、ユニークで優しい指導に好感触を得てすぐに入門を決めた。未経験でもレベルに合わせた指導法に、それぞれがはまっていく。第1期生として入門して1年が経ち、マジメに道場へ通っていた三人は、少しずつ別人のようになっていった。脂肪が筋肉へ変わりつつある趙さんは健康体を取り戻していき、沢瀚君は病気にかかりにくくなる。とくに大きな変化があったのは沢浩君で、悩んでいたイジメを克服することができた。その当時の様子を振り返る。

「仲間と一緒に弱いやつを見つけてイジメていく、素行の悪い同級生でした。最初は別の人をイジメていたんですけど、いよいよ僕の番になったんです。つねってきたり、呼び出されたりしました。デブとか言われても、なにもできなかったんです。でも、空手を習い出してからしばらく経って、そのイジメっ子が顔を殴ってきたんです。僕は、勇気を出して殴り返しました。そうしたら、二度とイジメられなくなりました。周りにいた仲間も、僕が空手をやっていることを知ったらしく、一目置くようになったんです」

もちろん空手家はケンカをしてはいけないが、身を守るために闘うことはある。そのイジメっ子はおとなしくなり、やがて転校することとなる。ケンカが嫌いな沢浩君がとった行動が、イジメの連鎖を止める役割をはたしたのだった。じつは沢浩君は、当初、小井師範が怖く稽古も厳しくて道場へ通うことをためらうこともあったという。きっとそれは、心の弱さを克服してほしいという小さなハードルが用意されていたのだろう。肉体の健康は、稽古を続けていけば自然とついてくる。だが心の強さは、意図的に負荷がかからないとなかなか身につかないものだ。「空手をやることで自信になった」と語る沢浩君は、より大きな成果を得ることができたのかもしれない。

三人の目標は、「最終的には黒帯を巻いてみたい」(趙さん)、「もっと筋肉をつけたい。大学へ進学しても続けたい」(沢浩君)、「大会で優勝したい」(沢瀚君)とそれぞれあるが、空手への熱い思いは同じだ。父・曹炬さんも、みんなが空手にはまっている姿を見て興味を持っているようなので近い将来、もしかしたら家族全員が揃うかもしれない。同じ方向を見て、みんなで讃え合える関係。空手が与えてくれたものは、計り知れないほど大きい。


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【カラテトランスフォーマー】vol.14 七戸じゅんさん~空手家議員に宿る武道魂

「選挙前なのに、よく試合に出ましたね」

 新極真会東京ベイ港支部に所属する七戸じゅんさん(54歳)は、空手の大会に出場することを聞いた仲間や関係者からそう驚かれたという。港区議会議員の総務常任委員長も務めている七戸さんは、4月26日に行なわれる港区議会議員選挙へ出馬する。昨年9月に入門したばかりのピカピカの白帯だが、選挙の約1ヵ月半前の2015年3月8日、都内の港区スポーツセンターで開催された「第5回総本部空手道交流大会」に出場した。

「入門して数ヵ月しか経っていませんでしたが、せっかく試合があるんだから出てみようと思いました」(七戸さん)

ケガをすれば選挙活動に影響が出る可能性があり、しかもわずかなキャリアの挑戦は無謀とも思えた。それでも、まったく臆することがなかったのだから肝が座っている。対戦相手が青帯8級の選手に決まると、ケガを心配した小井師範や谷口先生から最終の出場意思確認があった。だが、「ボディをガードしておけば大丈夫」と覚悟を決めて本番に臨んだ。

 試合当日。白帯を締めた新人がエントリーした階級は、第6試合場で行なわれたシニア50歳以上男子重量級デビュー。しかも第1試合だ。防具をつけているものの、ダメージを受ける可能性は十分にある。対戦相手と対峙した七戸さんは、試合が始まると猪のごとく突進した。突きや蹴りを出すが、わずか半年のキャリアでは正確に当てることは難しい。技の正確さを欠いて判定負けに終わったが、初戦にしては胸を張れる内容だった。

開会宣言をした武井雅昭・港区区長に笑顔で迎えられ、応援にきてくれた仲間の労いの言葉に涙が出そうになったという。スーツに着替え、本部席で試合を観戦する英雄の顔は、試合に負けた悔しさよりも満足感に包まれていた。

「試合をした時に痛みはなかったんですが、翌日、左腕が紫色になってみすみる腫れ上がり、ワイシャツの腕のボタンがつけられなくて袖をまくっていました。さすがは新極真空手ですね」

いまでこそ恰幅の良く見える七戸さんだが、青森で育った幼少の頃はガリガリでひ弱な少年だった。中学生の頃にバドミントン部で汗を流していたほかは、どちらからというとインドア派。極真空手の創始者・大山倍達総裁の半生を描いたマンガ「空手バカ一代」を読み漁り、密かに憧れを抱いていたようだ。

明治大学政経学部を卒業後、法政大学大学院経営学修了MBAを取得。株式会社リクルートに入社してから経験を積み、ソフトウェア開発会社および財務系人材系紹介会社を設立した。この頃に東京青年会議所へ入会し、港区委員会委員長を任せられた。政治に関心を持ち始め、当時の建設大臣の大塚雄司氏に強く薦められたことをキッカケに港区議会議員選挙へ立候補。平成15年、二度目の挑戦で見事に当選した。空手との接点は、政治の世界へ足を踏み入れてからだった。

「昭和35年生まれの35年会という会がありまして、12年前にそこで新極真会の緑健児代表に初めてお会いしたんです。極真空手の憧れていたものですから、気持ちは少年時代の頃に戻っていました。そして、5年前に小井師範が港区に道場を出されると聞いて、オープン用のポスターを貼るお手伝いなどをさせていただきました。また道場生が大会で結果を出された時に武井港区長を表敬訪問していただいていますが、アポイントメントを含めて橋渡しのお手伝いをさせていただきました。一昨年は年末の忘年会に港区議員としてゲスト参加させていただきましたが、昨年は道場生として顔を出させていただきました」

草ラグビー、フルマラソンを完走するなどアクティブな活動をしているが、「体が動かなくなる前に、やりたかったことをしたい」と入門を決意。50歳を過ぎてから、ようやく憧れの武道へと辿り着いた。いきなり試合を申し込んだり、道場の体験入門を省略するところは、七戸議員の真っ直ぐな性格を表している。

「政治もそうですが、即断即決が私のモットーです。武道、空手は礼に始まり礼に終わります。正々堂々と勝負し、相手を労わることを忘れません。政治も空手も誠実に向かい合えば、必ず結果がついてくると信じています」

港区をこよなく愛し、日本の発展を縁の下で支える七戸議員の次の決戦は、2015年4月26日。もちろん空手スピリッツで、難関を乗り越えることだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.13 佐藤潤さん~第1号会員は永久に不滅です

東京ベイ港支部第1号会員。まるで永久不滅ポイントのように燦然と輝く肩書きを持つのは、佐藤潤(さとう・じゅん)さん。58才。Vol.12で紹介した盟友・切明畑孝門さんと同じ大手広告代理店の株式会社電通に勤務し、新極真会の全日本大会などでは大会特別相談役として名を連ねる重鎮の一人でもある。

幼少時に剣道を習い、高校を卒業するまではサッカー部(ポジションはフォワード)に所属、会社では山岳部とスポーツ好きではあったが、それまで空手とは縁がなかった。だが大学を卒業後に入社した電通でスポーツ局へ配属されてからは、ビジネスで空手と絡むようになっていった。

 「極真の大会は97年の第1回カラテワールドカップから観戦していましたが、本格的に運営面で協力をさせていただくようになったのは99年からです。2003年に名称を新極真会に刷新した時の発表記者会見では、運営や広報などで協力をさせていただきました」 

裏方として新極真会を支えてきた佐藤さんが、空手を始めるようになったのは2010年。仕事が趣味へ変わる瞬間は、意外なタイミングでやってきた。

「これまで何度も新極真会の大会にご招待をいただき、緑代表を始め、みなさんとお付き合いをさせていただく中で、『空手をやりませんか?』と熱心にお誘いを受けたことがありました。ですが切明畑君は『仕事上、道場生になるのはちょっと』と話していましたし、やんわりとお断りをしていたんです。でも、中国で仕事をしてから心の変化がありました」

佐藤さんは、2008年に開催された北京オリンピックの準備のため、前年の2007年に中国へ単身赴任した。家族と離れ、慣れない土地での仕事と生活。さぞやストレスは大きかったことだろう。だが、現地で新極真会を普及している奥村啓治師範を緑代表に紹介されて訪問すると、その独特の指導法に驚かされることとなる。目の前には、国境を超えて楽しそうに空手をする不思議で温かい空間が出来上がっていた。

「北京道場を見学させていただきましたが、中国人だけではなくウクライナ人、ロシア人、フランス人など国際色豊かな人たちが楽しそうに稽古をしているんです。その中で奥村師範は、片言の英語とボディランゲージだけで会話を成立していました。ああ、新極真空手は、国境や言葉を超えることができる武道なんだと感動しましたね」

北京オリンピックが終了し、2009年に帰国。中国を発つ時には送別会、日本に就いてからは歓迎会に出席し、楽しいひと時を経験することとなった。喜びもつかの間、その後の健康診断では、生活習慣病のメタボ(メタボリックシンドローム)が通達されることに。医師からは食生活の改善と軽い運動を勧められた。そして、かねてより仕事を通じて知り合った新極真会の小井泰三事務局長(師範)が道場を開くニュースが耳に届くと、気持ちが大きく空手に傾き始めた。

「何かお手伝いしますよ」と佐藤さんが伝えると、小井師範から「では、体を動かしましょう」とオープン前に行なわれる体験会に誘われ、新しい道場へ足を踏み入れた。当時の年齢は53歳。初めての空手は不安もあったが、小井師範の相手のレベルに合わせた指導法が肌に合ったのか、心地良い汗をかくこととなった。稽古後のビールの味は、これまで経験したことがないほどおいしく、心身ともに浄化されたような気分になれた。

すぐに入門を決意。2010年6月10日の正式オープンにも参加し、第1号会員を認定された。佐藤さんの入門が広く知れ渡るようになると、弟の拓さんが兄に続き、切明畑さんも含めて多くの仲間の呼び水となった。週1~2回の稽古を続けた成果が出て、順調に昇級。「見るのとやるのは大違い」と思いつつも、空手の魅力にはまっていく。

そして2012年2月26日、初陣となる第2回総本部交流大会への出場が決まった。

「試合の1週間前から緊張していました。大会当日も各師範をはじめ、歴代の世界チャンピオンの塚本徳臣師範、鈴木国博師範、塚越孝行師範が次々と激励に来てくれました。でも周りから、『あいつは何者だ?』という目で注目されてよけいに緊張しました(笑)」

それでも道場仲間の熱い声援を受け見事デビュー戦で勝利。次の試合は残念ながらエネルギー切れで判定負けとなったが、貴重な体験をしたと今でも感謝しているようだ。

「攻撃をもらって下がると、相手の気持ちが強くなる。逆に攻撃して相手が下がると、こっちの気持ちが強くなる。これまで見ているだけでは分からないことが、闘ってみて初めて理解できました。試合は、下がってはダメなんですね」と冷静に分析するところは、さすがにメディアの最前線にいるだけのことはある。現在は4級の緑帯だが、最終的に目指すのは黒帯なのだろうか!?

「黒帯に挑戦するのは、山登りに例えると富士登山だと思っています。キチンと準備をしないと危険ですし、決して簡単なことではありません。私は頂上を目指すというよりも、富士山が綺麗に見える山に登り、そこから絶景を見たいのかもしれません。例えば八ヶ岳、箱根の金時山、三ツ峠山……などポイントはたくさんありますが、下界から見る富士山とはまた違って見えると思うんです」

 焦らず慌てず、ゆっくりと高みを目指す。これも佐藤さんなりの空手道なのだろう。大きな目標としては、東京ベイ港支部主催の大会が開催された時が来たら全力でバックアップすること。第1号会員は、みんなの夢を実現させるシェルパ(案内人)に徹したいようだ。「私は、周りの仲間に帯の色を抜かれてもいいんです。だって第1号会員は永久に抜かれませんから」と透き通った目で、高らかに笑った。


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【カラテトランスフォーマー】vol.12 切明畑孝門さん~電通マンにスイッチが入った瞬間

「職場では、私がフルコンタクト空手の道場へ通っていると打ち明けても誰にも驚かれないんですよ」

大手広告代理店の電通に勤務する切明畑孝門(きりあけはた・たかと)さんは、そう言って苦笑した。高校・大学時代にはラグビーで肉体を鍛え上げ、社会人になってもトライアスロン、水泳、マラソン(フル=3時間26分、ハーフ=1時間31分)に挑戦しているため、立派な体躯をしている。上背もあり、57歳とは思えないほど凛々しく若々しい。アスリートとしての雰囲気を身にまとっているためか、たしかに空手家と名乗っても不思議ではない。

東京ベイ港支部に入門したのは、2012年8月。2年で6級に昇級した。支部での存在感が帯の色以上に際立つのは、裏方として極真空手を支えてきたからだろう。

空手と接点を持つようになったのは、20年近く前まで遡る。ちょうど世田谷・杉並支部の塚本徳臣支部長が第6回世界大会で史上最年少チャンピオンとなり、厚木・赤羽支部の鈴木国博支部長とライバル争いをしている時からビジネスで関わるようになった。

「私は電通という会社でスポーツビジネスの仕事に20年間携わってきましたので、たくさんの格闘技関係者と会いました。そういう環境のなか、当時、まだ代表に就任していなかった緑健児さんからも大会のテレビ放映に関する相談を受けたことがありました」

それからというもの緑代表とは、年賀状のやり取りをする仲となる。また新極真会には昭和32年生まれの同世代に三好一男副代表、長野支部の藤原康晴支部長らがいたため、次第に意気投合していった。学生時代には大山倍達総裁がモデルになったマンガ「空手バカ一代」を熟読していたこともあり、空手への憧れも再燃しつつあったようだ。

だが8年前、最愛の妻・美奈子夫人がガンで他界してしまう。当時は長男の力(りき)さんが19歳、次男の良(りょう)さんが高校生だったこともあり、スポーツ局からコーポレート系のセクションへの異動を希望し、生活基盤を立て直すこととなった。スポーツ局から担当が外れても、緑代表には全九州大会、三好副代表から全四国大会、藤原支部長からは長野県大会へ招待を受け続け、仕事を越えた深い絆を感じていたと言う。大会観戦後は恒例のゴルフで汗を流し、「公私の“私”のほうが増えていきました」と振り返る。

それからほどなくして、同僚の佐藤潤さんが、東京ベイ港支部へ入門した。これまで何度もたくさんの師範や先生から新極真会への入門を勧められてきたが、その度に“友人関係が崩れるのが嫌だから”とやんわりと断ってきた矢先のこと。師弟関係になれば尊敬する存在として過剰な意識が出てしまい、友人関係に影響を及ぼすかもしれない。そんな悩みを抱えている時に、「佐藤さんがスルッと入ってしまったんです」と転機が訪れる。裏方として同じ立場のはずの佐藤さんが入門し、断る理由が消えていく。さらにゴルフ仲間が次々と入門することとなり、「完全に外堀を埋められていったんです(笑)」と覚悟を決めつつあった。

そして決め手になったのは、佐藤さんと一緒にゴルフした時のことだ。佐藤さんが柔軟体操をしている姿を見て、体力に自信があった切明畑さんは自慢するようにマネをしてみた。ところが、身体が硬くなっていて柔軟がうまくできない。この時の悔しさが引き金となり、ついに入門を決意することとなった。入門先は、佐藤さんと同じく会社帰りに寄ることができる東京ベイ港支部だった。

「最初は、空手をナメている部分があったと思います。体力には自信があったので、少しやれば、すぐにできるようになるだろうと思っていました。でも、見るのとやるのは大違いでした。稽古をやればやるほど、難しいことが分かりました」

心配していた師範たちとの付き合いの影響は、「小井ちゃんと呼んでいたのが道場では小井師範になっただけで、まったく問題はありませんでした」とクリア(?)され、入門して7ヵ月後には総本部交流大会に出場することとなる。体力を買われ勢いで大会に出てしまうところが、なんとも豪快な切明畑さんらしいが、闘いの場は決して甘い世界ではなかった。

「周りは回れ回れと指示していましたけど、まだ始めたばかりでしたから回り方なんて教わっていません。それに一般ではなくシニアの部に出場しましたから、もう少しフレンドリーに闘うのかと思っていたんです。でも、さすがに史上最強を目指す団体です。試合でアバラをやっちゃいました」と空手の洗礼を受けた。それでも負けず嫌いの性格が顔を出し、同僚の佐藤さんが同大会で1勝1敗の成績を残していることも背景にあったため、闘志に火がついたようだ。

「この場で宣言しますけど、来年の総本部交流大会に出場します。2年間の成長を見てみたいので」と2015年の総本部交流大会へのエントリーを公約した。ここまで遠回りをしたが、やはり生粋のファイターなのだろう。いまは空手道を驀進中だ。

「空手は、究極のスキンシップ。年功序列とか関係ないし、年下や女性に殴られても、『押忍、ありがとうございました!』と感謝して頭を下げる世界です。そして稽古が終われば、仲間と仲良く空手談議。こんなに面白くて、楽しい世界は他にありませんよ。それに佐藤さんともよく話しますが、新極真会の人たちと接していると元気をもらえるんですよね」

50歳を過ぎて空手に魅了された電通マンの夢は、定年退職後、全国の新極真会の道場で稽古をつけてもらうこと。年齢よりも若く見えるのは、きっと空手が生活の軸にあるからなのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.11 千野崇さん~闘う投資銀行マンが見つけた居場所

コロンビア生まれの日本人。今年の4月に東京ベイ港支部の門を叩いた千野崇さん(39歳)の経歴は、いきなり異色である。コロンビアで生まれ、メキシコで幼少期を過ごし、アメリカ、ポルトガルなどを転々とした経歴を持つ。父親が商社に勤めていたため、兄とともに4人家族で世界各国を渡り歩くことは宿命ともいえた。だが、高校2年生の2学期、17歳の時に日本で一人暮らしをすることとなった。

「それまではずっと海外で暮らしてきましたが、いきなり親父に日本の高校へ通うように言われたんです。しかも帰国子女が多い高校ではなく、普通の私立の学校に入学するように勧められました。親父とは日本語で会話していたために言葉は理解できましたが、最初は普通に漢文・古文の授業が行われていて、『なんだ、これ!?』と驚きましたね」

千野さんの父親は、先見の明があった。日本の企業に就職してから海外に赴任するのと、グリーンカードを取得して最初から海外の会社で働いているのでは、待遇に違いがあるからだ。前者はお客さん扱いで優遇されるが、後者は這い上がるまでにかなりの努力が必要になる。東洋人というだけで、差別されることもあるようだ。このまま海外で生活していれば、就職した後に息子が困るのではないか。そう決断しての非情に徹した日本での一人暮らし命令だった。

「最初は学校の勉強の進め方がアメリカと違うので戸惑いましたが、日本は便利だし、交通網もしっかりしていて食べ物も豊富です。人が優しくて差別とかもあまりないし、本当にいい国だなと思いました。映像で屋台のシーンを見て行ってみたいと思っていましたし、長く海外に住んでいたので日本の良さを強く感じることが多かったです」

父親の狙い通り千野さんは日本へ馴染み、一流の投資銀行に就職。インベストメント・バンカー(投資銀行マン)として国内外で頭角を現していった。やがて結婚して二人の息子が誕生。すくすくと育つ我が子を見て、武道を習わせたいと思うようになっていく。  

「私が小学1年生から小学6年生まで、海外でキックボクシングを習っていたこともあり、格闘技に興味があったんです。せっかく日本に住んでいるのならば、空手を習わせてみたいと思うようになりました。調べたら自宅の近くに東京ベイ港支部の道場があることを知り、長男と一緒に入門を決めたんです」 

長男の峻君(6歳)はサッカーや他のスポーツを習っても長続きはしなかったが、空手だけは違ったという。週3回、道場へ通うだけではなく、自宅で父親と一緒に型を覚えたり、股割りをするなどその熱血ぶりは半端ではなかった。

 「この前、昇級審査があって息子と一緒に私も受審しましたが、なんと飛び級で合格したんです。あまりにも嬉しくて、息子とハグして喜びました」

峻君が空手にはまって……と嬉しそうに語る千野さんだが、息子以上にどっぷりと浸かっているのは間違いない。理由を聞くと厳しい現状を打ち明けた。

「私の仕事は、何千億ものお金をかけて企業の買収のお手伝いをするなど、M&Aをメインにしています。ライバルを蹴落とすためには手段を選ばずに非情なことをする世界ですし、つねにピリピリしている業界でもあります。取り引き先に訴えられて裁判に発展することもありますし、ミスをすれば席がなくなることだってあります。そんな世界に身を置いていますので、道場へ行った時の人の温かさ、ピュアな心に驚きました」

 少し前に流行したドラマの半沢直樹ではないが、つねに職場が戦場と化しているのが、インベストメント・バンカーという仕事の特徴なのだろう。その正反対に位置するのが、千野さんにとって空手の道場ということになる。闘う場所が癒し効果になっているのは常在戦場の千野さんらしいが、もしかしたら解毒作用が働いているのかもしれない。

だが残念ながら、2014年7月末を最後にニューヨークへ転勤することとなってしまった。新極真会のニューヨーク道場へ通うことになるため、慣れてきた東京ベイ港支部とはしばしの別れとなる。

「転勤の話を聞いた時、最初に頭に浮かんだのは生活面とかのことではなく、空手ができなくなるということでした(笑)。せっかく道場のみなさんに仲良く接していただき、仕事も順調で、これからという時だったのに残念です。でも、オフィスの近くに道場があると聞きましたので、空手は続けられそうです。日本へ帰れるのは3年になるのか10年になるのか分かりませんが、戻ってきたらまた東京ベイ港支部に通います」

 仕事を忘れ、人間らしくいられる場所。コロンビア生まれの半沢直樹が道場に見つけたのは、自分の居場所だった。ニューヨーク道場でも東京ベイ港支部魂は、いつまでも生き続けることだろう。そして闘う投資銀行マンの居場所は、いつまでも変わらずに道場の片隅に残り続ける。


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