【カラテトランスフォーマー】vol.23 村上正さん・四季君~親子二人三脚で目指す夢の頂

「東京東錬成、総本部錬成、愛知県、佐伯道場錬成、川崎錬成、長野県、ドリーム、全北陸、群馬県、関東錬成、埼玉県、全関東。ほぼ毎月ですね。1月だけじゃないですか、試合がないのは」          

関東圏を中心とした新極真会の年間大会スケジュールを、早口言葉のようにスラスラと口にした村上正さん。どれも息子の四季君が数年来にわたって出場してきた大会だ。四季君のサポートに徹するため、正さん自身は一度も試合を行なったことはないが、親子揃って東京ベイ港支部で稽古に励み、大会がある週末には時に地方へも遠征する生活を送っている。

今や村上親子にとって欠かすことのできない存在となった空手だが、その出逢いは偶然だった。2010年6月、自宅マンションに品川小井道場(当時)オープンのチラシがポスティングされており、4歳だった四季君にスポーツを習わせたいと考えていた正さんは体験会に四季君を連れて行き、すぐに入門させることを決めた。     

「小井師範は子どもたちを惹きつける雰囲気や話術を持っていらっしゃって、人の目を見て話すとか靴を揃えるとか、しつけの面も指導していただきました。この先生に子どもを預けたいと、私も妻も直感的に思ったんです」     

天性の運動神経のよさを発揮し、幼年ながら小学生のクラスに飛び級で参加するなどメキメキと上達していった四季君は、入門から1年後の2011年に川崎錬成大会で試合デビューをはたすと、いきなり組手と型をダブル制覇。そして翌2012年7月にはカラテドリームカップ(現・カラテドリームフェスティバル)国際大会で優勝を飾り、同年代のトップランナーに躍り出た。

一方の正さんは、四季君から遅れること1年半後の2011年12月に入門。中学、高校時代に取り組んだ柔道では有段者だったため、競技が違うとはいえ最初はもう一度白帯から始めることに抵抗もあったと振り返るが、「同じようにきついことや痛いことを経験すれば、より子どもの気持ちに寄り添えるんじゃないか」と、41歳で新たな一歩を踏み出した。

外資系生命保険会社の営業マンとしての地位を確立し、「40歳を過ぎて、誰かに怒られることもそうそうなくなっていた」と語る正さんにとって、年下の先輩たちがいる空間は新鮮だった。家庭、職場とは違う第3のコミュニティは「自分を正してくれるものですね。疲れやストレスで間違った方向に行きそうな時でも、道場では全部忘れて稽古に集中できるので、曲がりそうになったベクトルを真っすぐ戻してくれるんです」と、無心で汗を流す喜びを感じている。     

正さんには、空手においての絶対的な決めごとがふたつある。ひとつは、「小井師範と亜翠佳先生のことを全面的に信頼して、すべてお任せしているので」と、四季君に空手のダメ出しをしないこと。もうひとつは、つねに四季君よりも下の帯でいること。確かに現在、正さんは緑帯(3級)、四季君は茶帯(2級)だ。その理由を正さんは次のように語る。     

「子どもからすると、父親って絶対的な存在じゃないですか。知識も体格も体力も敵わない。その中で、ひとつだけでも父親より上にいけるものをつくりたかったんです。空手に関しては四季のほうが先輩ですから。勝てるものが何もないと、たぶん逃げ場がなくなってしまうと思うんですよ」

優勝した翌年のドリームでは3位入賞をはたした四季君だったが、小学2年生以降は毎年、あと一歩のところで表彰台を逃していた。「だんだん結果が出なくなって、小学3、4年くらいの頃は『稽古をしても勝てないんじゃないか』『遊ぶ時間を削ってまで空手に行く意味はあるのだろうか』という思考になって、少し空手が嫌になったこともあった」と四季君は語るが、そんな時に小井師範からかけられた言葉が今も胸に残っている。     

「『今、四季の花は閉じていてつぼみだけど、いつか絶対に開花するからこのまま続けていれば大丈夫』と言っていただきました。亜翠佳先生も試合後に慰めてくれたり、奮い立たせてくれたり、いろいろな声をかけていただいています。時には厳しい言葉もあるんですけど、全部僕のために言ってくれているのだと思っています」

四季君はこの春から中学生になった。通学に片道1時間かかり、勉強にサッカーの部活動にと慌ただしい毎日を過ごす中でも、精力的に道場へ通い、稽古に打ち込んでいる。四季君には、空手でどうしても叶えたい目標があるという。それは、「胴上げされたことくらいしか覚えていない」と、6歳で初優勝した時の記憶がほとんど残っていないドリームフェスティバルで、もう一度頂点に立つこと。しかし、そこに焦りはない。     

「勝とう勝とうと思うと今度は勉強やサッカーが追いつかなくなると思うので、絶対に今年優勝しなければいけないとは思っていません。じっくりと、何年かかっても達成したいです。限られた時間の中で稽古をがんばって、そうしたらきっといつか結果はついてくると思うので。今はその時を待ちたいです」     

中学1年生とは思えぬほど冷静に、俯瞰して自分自身を見つめる四季君。正さんは、四季君の心を動かした小井師範の“言葉力”のすごさを語る。     

「小井師範はいつも子どもたちにメッセージを出すんです。たとえば、『あるものはある。ないものはない。ならばあるものに集中しよう』。『他人と同じことをやっていても強くなれない。バカになれ』とか。直接言われたわけではないんですけど、後ろで聞いていると自分に言われているような気がして、すごく響きます。そういった言葉の一つひとつをかみ締めて帰ることが多いですね。“小井語録”という本をつくれるなと思うくらい、すごくいいことをおっしゃるんですよ」

今後の空手の目標を「できる限り続けることです。今は週に1回稽古に行けるかどうかですけど、これからも細く長く続けていきたいですね」と正さん。「小井師範は私の中でずっと『メンター』です。目標であり、理想。それを支えているのが亜翠佳先生。すごくいいコンビですよね。おふたりと同じ空間にいられるのは、本当に幸せです。他の道場のことはわからないですけど、東京ベイ港支部は最高だと思います」。     

 支部発足時からの生え抜きとして将来を嘱望される四季君と、それを一歩後ろから温かく見守る正さん。時には笑顔も涙も共有し、理想的な親子関係を築くふたりの空手道は、最高の仲間たちに囲まれながらこれから先も続いていくことだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.22 村木丈夫さん・泰大さん~空手が親子の絆を強くする

「私は転勤族なんです。もう何回、引っ越しをしたのか分からないくらいです」          

 茶帯を締める村木丈夫(むらき・たけお)さんは、そう言って苦笑した。勤務先は、野村證券株式会社。長年に渡り一流企業の営業マンをしているため、転勤することが多いようだ。過去の転勤歴をたずねると、しばらく考え込むくらいに複雑だった。     

一つひとつ丁寧に転勤先を説明してくれながら、「年表にしてお送りしますよ」と軽く冗談を言って笑う。後日、本当に年表を送ってきたのだから、その生真面目さに驚いた。        

4番目の赴任地は、福岡県だった。この時に、長男・長女の4人家族の村木家が空手と遭遇する。2002年8月、現在22歳の長男・泰大(やすひろ)さんが、幼稚園年長の時(5歳)まで遡る。ママ友たちが子どもを連れて、『スポーツクラブ ルネサンス西新』で空手の体験入門をしたことがキッカケだった。     

「ボク、空手をやってみたい」。母親に連れられて体験入門した泰大少年は、目を輝かせてそう叫んだ。この瞬間から、村木家の空手への道が開かれた。

ルネサンス西新は、新極真会の代表を務める緑健児師範が主宰する福岡支部の道場。長男が極真カラテを始めることを聞いた丈夫さんは、子どもの頃から抱いていた憧れが再燃する。青春時代に、極真カラテ創始者・大山倍達総裁を題材にしたマンガ『空手バカ一代』にはまり、空手への思いを募らせていた。しかし小学3年から大学生まで部活で柔道をやっていたため、いつかは空手をやってみたいという思いが頭の片隅にあった。

社会人になってから同僚に誘われてキックボクシングを習っていたが、目標を見つけることが難しく、やはり空手への思いは拭い切れなかった。だが極真カラテはケンカ空手のイメージがあったため、敷居は高かったようだ。そんな時に子どもが先に極真カラテを始め、稽古風景を見学に行くと、それまでの怖いイメージが一新されて誰でもできそうな印象をもつこととなる。同じ壮年部の道場生もいたため、2003年5月に父親も門を叩いた。     

じつは丈夫さんが入門する少し前、今度は逆に泰大少年が空手に対して怖さをもつようになっていた。強い子と組手稽古をやる機会も増えていき、怖さと痛みでよく泣いていたのだ。もしかしたら父親がタイミング良く入門したのは、そうした息子の弱虫を克服してほしいという親心があったのかもしれない。     

それでも空手をやめずに続けた泰大少年は、初めての昇級審査会に臨み、緑師範の前で全力を出し切ってオレンジ帯の昇級を決めた。当時の様子を本人がこう説明する。     

「小さい頃だったので記憶はあまりないんですが、ルネサンスの道場生で昇級したのは僕が初めてだったようで、緑師範からお褒めの言葉をいただいたようです。転校の時、緑師範に最後の挨拶へ行くと『がんばって』と記念カードをもらいました。それは、今でも大切に持っています」    

丈夫さんも昇級審査会に臨んだ際、緑師範から「お父さん、がんばって」と声を掛けてもらい、憧れの存在の前で昇級できたことに感動を覚えたそうだ。

2004年7月、愛知県豊橋市へ転勤。最初は父親が単身赴任の形をとっていたが、その翌年の8月、今度は家族が引っ越してきて豊橋での新生活が始まった。空手はもちろん継続し、親子で山本健策師範が主宰する愛知山本道場へ移籍することとなる。すでに福岡支部で鍛えられてきたふたりは、愛知山本道場で稽古に戸惑うことはなかった。

7歳から9歳まで愛知山本道場で稽古した泰大少年。「空手をスタートした福岡支部で基礎を教えていただき、愛知山本道場で組手テクニックを学ばせていただきました」と振り返る。愛知錬成大会の小学2年生の部では、優勝を経験した。     

2006年12月には、鳥取県米子市へ転勤となる。家族も翌年4月に引っ越し。近くに新極真会の道場がなかったために、他流派の道場へ籍を置くこととなった。     

そして2010年3月、父親を米子に残して家族が実家のある滋賀県に住居を移す。13歳の泰大君が新極真会に再入会すると、遠江大師範が主宰する滋賀中央支部に通うようになる。父親は兵庫県宝塚市→愛媛県宇和島市と転勤が続くが、2011年7月に息子が通う滋賀中央支部への入門を志願し、新極真会へ再入会をはたした。

だが泰大君は部活動で陸上部に所属し、400m走競技に打ち込んでいたこともあり、なかなか空手をやる時間が取れなくなっていた。それでも空手をやめなかったのは、「塚本徳臣師範が、第10回世界大会で優勝した時に『選手としては引退しますが、自分は死ぬまで現役です』とスピーチしたことを聞いて、自分の中で辞めるという選択肢はなくなりました」と継続した理由を説明する。もちろん父親が続けていたことも、大きかったのだろう。

「最初は空手をやって泣いていた息子ですが、一度も辞めると言ったことはありません」と父親は述懐する。これだけ転校を繰り返していれば、どこかで気持ちが切れそうなものだが、ふたりとも空手への情熱は変わらなかった。それは、緑師範にはじまり、山本師範、遠江師範と指導者に恵まれたことも背景にあるのだろう。

 前振りが長くなったが、2015年4月に家族が東京へ移住。翌年8月に父親が上野支店へ転勤となり、ようやく現在の東京ベイ港支部へ移籍することとなった。

小井師範と谷口師範代の丁寧な指導法に触れたふたりは、「丁寧なご指導はもちろんですが、いつも情熱が伝わってくる稽古です」(丈夫さん)「質が高く、少しの動作でもすごく考えることが多くなりました」(泰大さん)と語るように、さらに空手への情熱が増している。     

目標は、親子揃っての黒帯取得だそうだが、「1級と初段の差は、想像以上に大きいです」とふたりとも黒帯の壁を感じ始めている。偉大な黒帯の先輩方を見て、「はたして自分もなれるのだろうか」「資格はあるのだろうか」と自問自答する日々が続いているのだろう。

仕事の合間を見て積極的に道場へ通う丈夫さんは、今後も転勤とにらめっこをしながらの稽古となるが、黒帯への挑戦を見据えてこれからも精進していく覚悟を決めている。     

泰大さんは、今春から大学院生となり教員を目指している。教員になろうと思えたのは、空手との出会いが大きいと打ち明ける。後輩にアドバイスをするうちに、教えることの楽しさを学ぶことができたようだ。     

最後に泰大さんに憧れの存在を訊くと、「師範の方々は当然ですが、あとは父です」と即答した。     

「父は自分が知らない世の中の仕組みや知識をいつも教えてくれるので、今でも憧れの存在です」と断言する。空手を通じて父の背中を見て、一緒に走ってきた17年間。転勤や転校に直面しても、真っ向から受け止めて順応することができたのは、もしかしたら空手が生活の中心にあったからなのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.21 広田一さん~闘う議員が目指す理想郷

「昨年、衆議院議員選挙へ出馬するため故郷の高知県へ戻ることになりまして、とても迷いました。高知県に移住することになれば東京ベイ港支部に通えなくなってきますので、はたして籍はどうしたものかと。そこで、かねてから懇意にさせていただいています新極真会高知支部の三好一男師範に相談したところ『今度の衆議院議員に当選して国政で活躍することになるんだから、籍はそのままの方がいいよ』とアドバイスをいただきました」     

 三好師範のその予言通り、広田一(ひろた・はじめ)議員は、2017年の第48回衆議院議員総選挙において高知2区から出馬し、見事に当選した。もちろん籍は、東京ベイ港支部のままだ。今は、月曜日から金曜日まで東京で衆議院議員としての務めをはたし、土・日は高知で過ごす日々を続けている。     

 もともと参議院議員だった広田議員は、徳島・高知の合区化反対の意思を軸に国政を変える意向が強くなり、衆議院議員に転身した。だが衆議院議員までの道のりは、決して順風満帆ではなく、まるで茨の道を突き進むようだったと振り返る。民進党を離党し、希望の党からの公認を辞退しての無所属での出馬は、大きな勝負と言えた。

「当時の国政は、離合集散を繰り返し、多くの議員が右往左往しているように見えました。でも、こういう時だからこそ自らの主張を曲げずに信念を貫くべきだと思いました。そのために無所属での出馬になりましたが、政党に属していないと政見放送に出られず、政党ポスターやハガキの制限など、ハンデだらけでした。ご承知のように仮に落選してから比例復活ということも無所属ではありませんので、退路を断って、やり抜く覚悟を決めました。これは、空手で、新極真会で学んだことでもあります」

 政党に頼らない無所属での出馬は、自分の足で信頼を勝ち取らなければいけないため、靴を減らして汗を流した。「1票でも負けたら終わり」の覚悟を持ち、1年間で訪問した家や事務所の数は、約2万件にものぼった。有権者の意見を聞いて歩き、「誰よりも高知2区の実態を知ることができました」と泥や埃にまみれた。こうした真摯な姿が、有権者の心を掴んだのだろう。“この人ならば、何とかしてくれる”と広田議員にたくさんの票が集まった。

広田議員が空手と出会ったのは、14年前。高知県議会議員を務めていた関係で三好師範との縁ができ、全四国大会の大会副会長を任された(ちなみに大会会長は、中谷元議員が就任)。その時はまだ空手を始めてはいなかったが、中学生時代に剣道部で鍛えていたために武道への関心が高く、父親が大学生時代にレスリングのオリンピック候補にまで挙がる逸材だったこともあり、素地は十分にあった。     

それから7年後、広田議員に大きな転機が訪れる。2011年3月11日、東日本大震災が発生し、当時防衛大臣政務官を務めていたことで対応に追われる日々が続いた。数日間で体重が10kg以上も減る激務により、みるみる痛々しい姿に変貌していった。全四国大会で広田議員の変わり果てた姿を見た東京ベイ港支部第1号会員の佐藤潤さんが、「ストレス発散と健康のためにも空手を始めた方がいいですよ」と心配して声をかけるほどだった。

ほどなくして広田議員は、入門を決意する。すでに息子が高知支部の三好師範の下で空手を習っていたものの、興味はあっても議員生活一期目でなかなか時間が割けなかった。だが議員活動のペースが掴めるようになると、都内であれば国会の合間に時間が割けるようになり、同じ四国出身で同年代、また三好師範門下でもあった小井師範の東京ベイ港支部の門を叩いた。空手を観戦していたこともあるのか不思議と怖さはなく、小井師範や谷口師範代の会員個々のレベルに合わせた指導法が水に合い、青帯を巻くまでに成長した。     

「とてもいい雰囲気で、稽古をさせてもらっています。もっと稽古ができるようになれば、いつかは試合をしてみたいです」と広田議員。まさか顔に青タンをつくって国会に出るわけにはいかないのかもしれないが、武道の心得がある闘う議員は、国民にとって頼もしい存在であることは間違いない。

「とりあえず緑帯までいけば、自分の身を守ることができます。できれば、そこまでは辿り着きたいです。あとは全四国大会の中谷元会長をはじめ議員の関係者のみなさんとも協力して、フルコンタクト空手のオリンピック競技化を進めて行きたいですね」と力強く語る。

東京では東京ベイ港支部で、週末は高知支部の高知県庁空手クラブで汗を流し、日本人にとって大切なものを見極めている。今の日本に必要なのは、広田議員のような正義感を持った勇気のある熱血漢なのではないだろうか。

闘う議員は、日本人のための理想郷を目指してひたむきに走り続ける。


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【カラテトランスフォーマー】vol.20 関かかりさん~空手という名のアート

プロフィール写真を見て、笑顔の関かかりさんの右側に写る“顔”が気になった方も多いのではないだろうか。一見すると人形のようだが、じつはれっきとした人間。刈り上げられた女性の後頭部に、関さんの似顔絵が描かれている、という構図だ。     

後頭部の人物は若木くるみさんという美術家で、2009年の『第12回岡本太郎現代芸術賞』では、グランプリにあたる岡本太郎賞を受賞している実力派。彼女は246kmのマラソン大会『スパルタスロン』や、山中を走る『トレイルランニング』に参加するなどアスリートとしての顔も持ち、芸術とスポーツを融合させた斬新な試みを数多く行なってきた。写真は2014年に兵庫県で展覧会が行なわれた約2ヵ月間、若木さんが後頭部に毎日違う人物の顔を描き、後頭部の人を世界各国の旅へお連れする「葉っぱを求めて三千里」という作品で、ゴール地点の展覧会場に戻ってきた時の一枚。長い旅のフィナーレを飾る似顔絵が、キュレーションをしていた関さんだったというわけだ。     

もともと絵を描くことや物づくりが得意だったことから、京都市立芸術大学へ進学した関さん。学生時代は自身も“アーティスト側”にいたが、「大学の中でもこの人はすごいな、才能があるなと感じる人が何人かいるんです。時間が経つにつれ、自分が制作をすることより人が生み出す作品をどうやったらうまく世に出していけるか、というほうに興味が湧くようになりました」。大学卒業後、京都のアートギャラリー勤務を経て、2009年から実家のある東京へ戻った。現在は美術館の職員として、所蔵作品の貸し出しや現代アートイベントの企画などを担当している。前述した若木さんをはじめ、アーティストとは仕事をともにする機会も多い。

「私はアートの世界しかあまり知らないんです」と語る関さんと空手の接点は、ある偶然から生まれた。2015年12月、知人が主催した飲み会に参加したところ、店に遅れて現われたのが、カラテトランスフォーマーvol.1に登場している西畑誠さんだった。この日が初対面だった西畑さんは、やたらと体格がいい。聞けば、極真空手の道場に通っていて、飲み会に遅れたのも稽古があったからだと言う。ちょうどこの時期、次第にふくよかになっていく自身の体型を気にしはじめていた関さん。漠然と運動をしなければと思ってはいたものの、元来痩せ型で一度もダイエットをしたことがなく、何をすればいいのかわからなかった。そんな時に飛び出した「空手」というワード。「体験はできるんですか?」「できますよ」「女性はいらっしゃるんですか?」「たくさんいます。女性の先生もいますよ」「一度体験しに行ってもいいですか?」――。トントン拍子に話は進んだ。

「最初は『えらいところに来てしまったな』と思ったんですけど、見よう見まねで突きや蹴りを出したら気持ちがよくて、すごく楽しかったです。それに、亜翠佳先生はすぐに私の名前を覚えてくださって、道場の女性陣も気さくに話しかけてくれました。最初の印象がよかったことが大きいと思います」

関さんはその日のうちに入門を決めた。同性で年齢も近い谷口亜翠佳先生は、女性ならではの力の出し方などを教えてくれ、週1回の型クラスでは手取り足取り指導をしてくれることもある。また、「最初にお会いした時は絵に描いたような『空手家』という印象で、オーラがすごかった」と語る小井泰三師範は、前回の稽古からよくなった部分をきちんと見てくれていて、それが次の稽古への活力となった。小井師範と谷口先生がつくり出すアットホームな空気に居心地のよさを感じ、さまざまな職種が集う東京ベイ港支部道場生との会話を楽しみながら、関さんは週2回のペースで道場に通った。そして空手の世界に触れたことは、関さんの中に眠っていたある感覚を呼び覚ますこととなる。     

「今の私の仕事はアーティストと展覧会やプロジェクトに向け、作品にとって良い展示になるようにともに考え、実施に向けて調整します。これまでも大学卒業からはずっと、人のために何かをするという生活が当たり前になっていました。もちろん、そこにやりがいを感じていますが、自分のために行動する機会がなくなっていたことに気がつきました。大人になってから何かを学び、稽古をしたことが自分の身になっていることを実感できるのは、すごく新鮮で楽しいです。大人になると、試験を受ける機会もなかなかないですよね。昇級審査の時はすごく緊張しましたが、『この緊張感って久しく味わっていなかったな』と思いました」

緊張した場面を回想しているにも関わらず、関さんはどこか楽しそうだ。入門から2年が経過し、日々の稽古が目に見える形で成果となって表われていることも、その理由だろう。帯の色は白からオレンジへと変わり、現在は青帯を締めている。また、体が絞れたことで体重は3~4キロ減り、ダイエットという当初の目標は達成した。しかし、「今は体を動かすことが楽しくて、空手をしていないと体がムズムズするんです」と語るように、空手を続ける目的そのものにも変化が生じはじめている。そんな関さんに現在の目標を訪ねると「横蹴りを綺麗に蹴りたい」という答えが返ってきた。     

「亜翠佳先生に毎週教えていただいているのですが、私は股関節が硬いので横蹴りが全然上がらないんです。同じクラスに来ている若いお嬢さんは、体がやわらかくて横蹴りがスムーズに綺麗に上がるんですよね。一緒に型を教えてもらう時は足を引っ張っちゃいけないなと思うと同時に、いつも自分の不甲斐なさを痛感します。亜翠佳先生は繰り返すことが大切だとおっしゃっていたので、がんばらなければいけないですね。組手でも型でも、帯が上の方になるほど動きがすごく美しくて、いつも見惚れてしまいます。他の方を見ていると、空手って美しいなと思います」

長年、アートの世界に身を置いてきたことがそうさせるのか、関さんからはまるでひとつの作品を批評するように、どこか俯瞰で自身を見ているような印象を受けた。関さんの目に映る『空手家・関かかり』は、まだまだ不満だらけの出来なのだろう。いつの日か、芸術作品のような美しい蹴りが放てるように――。

大好きな仲間に囲まれた道場で、関さんは今日も自分自身という作品を磨き続けている。


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【カラテトランスフォーマー】vol.19 今村章太郎さん~「人間力」あふれる税務のスペシャリスト

35歳の若さで『今村章太郎公認会計士・税理士事務所』の代表を務める今村章太郎さんと空手の出会いは、監査法人に勤めていた2010年にさかのぼる。当時、仕事と並行して通っていたビジネススクール(キャリアコンサルティング主催)は新極真会と親交があり、企画の一環として道場に体験入門することとなった。オープンしたばかりの品川小井道場(当時)で初めて空手を経験した今村さんは、すぐにその魅力に惹かれることとなる。

「その時は基本稽古とミット打ちをやったんですけど、うまくミットが蹴れた時の快感や、体が“ハマった”時の感覚がおもしろかったです。もともと体を動かすのが好きだったこともあり、すぐに入門しました。小井師範は一人ひとりのレベルに合った教え方をされていて、すごくわかりやすかったです。明るく盛り上げていただけるのでやっていて楽しかったですし、もちろん今もすごく楽しいです」 

そう語る今村さんの笑顔からは、どんな言葉よりも雄弁に空手や小井道場への愛が伝わってくる。中学時代は野球部、高校時代はラグビー部に所属。もう一度何かスポーツを始めたいと思っていた矢先、28歳で出会ったのが空手だった。ただ、「まさか自分が格闘技をやるとは思わなかった」と振り返る今村さんにとって、未知の世界へ飛び込む決め手となったのは、小井師範から伝わってくる「人間力」だったという。体験入門の際、小井師範が話した内容が今も記憶に残っている。

「小井師範から最初に教えていただいたのが、『押忍』という言葉の意味でした。気持ちはつねに押して前向きに。それでいて、一歩引いて忍ぶ謙虚な姿勢を持つ。つまり、心の在り方ですよね。なるほどな、奥が深い世界だなと感じました。私が通っていたスクールは人間力を高めることがテーマだったので、それもあって小井師範はそういうお話をされたのかなと思います」

空手の真髄に触れ、道場で人間力を養った今村さんは、2012年に税理士事務所に転職。約4年間の実務経験を積み、2016年に独立した。多忙な日々の中、道場には週1回通うのがやっとという状況。3年前に結婚して子どもが生まれたこともあり、満足に顔を出せない時期もあった。それでも空手を続けられたのはなぜだったのか。

「おそらく、小井師範のもとでなければここまで続いていなかったと思います。さすがに1ヵ月半くらい期間が開いてしまった時は、道場へ行くことに引け目を感じました。でも、小井師範はそんなことを全然気にされないんです。『過去は忘れて先のことを考えましょう』とおっしゃっていただいて、すごく気持ちが楽になりました」

今村さんにとって道場とは「自分をリフレッシュできる場所」。机に向かうことが多い仕事柄、「空手をやらないと肩もこりますし、溜まったフラストレーションを道場で発散することでバランスが取れています」と語る。また、「普段、仕事では出会えないような職種の方とお話ができる環境も、すごく魅力的だと思います」と、道場でできた仲間の存在も今村さんの支えとなっている。現在、黄帯を締める今村さんだが、視線の先には大きな目標があった。

「同時期に入門された方はどんどん上の帯にいっているんですけど、私の場合は細く長く続けていって、その先に黒帯があればいいなという感じですね。独立して自分で時間をコントロールできるようになった分、また定期的に道場へ通えるようになってきたので、機会を見て試合に出たいという気持ちもあります」

この取材が行なわれたのは、今村さんのように対個人事業者がメインの税理士がもっとも忙しくなる、確定申告を控えた2月上旬。それでも「税金やお金について不安がある方も多いと思いますが、そういった方にわかりやすく説明して理解をしてもらえると、だんだん安心してお客様が笑顔になるんです。ひとりでも多くの方を笑顔にしたいですね」と語る今村さんの表情は、イキイキとしていた。

 家族を養い、社員を養い、顧客を笑顔にする。柔らかい雰囲気の中に信念が垣間見える35歳からは、たしかな人間力がにじみ出ているように感じた。それはもしかすると、かつて今村さんが小井師範に感じたものと似ているのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.18 後藤夏樹さん~会社経営者は空手を日常にする

「会社は、午後7時半で強制退社です。残りの時間を充実させてほしいと、いつも社員に言っています」

 東京ベイ港支部に通う後藤夏樹さんは、2003年に創業された株式会社エス・エム・エスの代表取締役社長を務めている。同社は介護・医療・キャリアの分野を中心に、40を超えるサービスを展開。資本金は21億5252万円、2016年3月期の売上高は190億6910万円を計上し、右肩上がりの成長を続けている。社員数は連結で1714人を数え、高齢化が進む日本において同社への需要はますます増加していく一方だ。

会社経営の多忙な生活を送る中、後藤さんは「社員に充実した生活を送るようにと言っておいて、自分が何もしない訳にはいかないでしょう」と2年3ヵ月前から東京ベイ港支部に通うようになった。なぜ、空手を選んだのか? 後藤さんは、少し恥ずかしそうな表情を見せつつ空手との関わりを語り始めた。

「じつは、僕が16歳、高校1年生の時に3年間、空手を習ったことがあったんです。高校はテニス部に所属していたんですけど、レッスンは月・水・金の週3日のみ。火・木に何か体を動かすことをしようと考え、たまたま仲の良かった友人が空手を習っていたので僕も始めることにしました」

後藤さんが足を踏み入れたのは、極真カラテの名門・城南支部。フルコンタクト空手のトップ選手が揃う稽古は、過酷そのものだった。「道場は殺伐とした雰囲気で、組手はライバル意識が強く、いつもガチンコでした。週2回通っていましたが、週1回、月1回とだんだん足が遠のいていきました。最後は在籍するだけの幽霊部員のようでした」と当時を振り返る。入門当時から大会への出場を考えていたわけではないため、他の道場生との温度差があったのだろう。

映画制作の仕事に関わりたいと考えていた後藤さんは高校卒業後、東京工芸大学へ進学する。この時に、高校時代の仲の良い友人が中央大学で大道塾空手の同好会を主宰していたため、1年間のみ、たまに参加していた。空手との接点はここまでで、東京ベイ港支部へつながるまでに約20年間の空白ができてしまう。その20年間の入り口は、破天荒な人生の幕開けとなった。

「大学の卒業が近づくと就職活動をし、小さな制作会社の内定をもらっていたんです。でも、そのまま就職するのはつまらないと思うようになってきまして、たまたま日本で知り合ったアメリカ人から『アメリカで映画を撮っているので興味があったら来ない?』と誘われて行くことにしました。その人の家に居候をさせていただき、映画制作活動を始めました」

ニューヨークの小さな映画祭に制作した作品を出展するなど精力的に動いていたが、ある日、知り合いのアメリカ人から「オランダのアムステルダム映画祭に出展するので、ついて来ないか?」と誘われた。さすがにそれは断り、アメリカへ残ることに。もともとビザ取得のために、ニューヨークの市立大学に籍を置いていたため、学業を真剣に学ぶようになっていった。生活費が必要になり、アメリカで仕入れた商品を日本で売るためのオークションサイトを立ち上げ、生活の足しにしていたこともあった。 

大学院へ進んだ後藤さんは、2年間、ビジネススクールに通いつつオークションサイトで得た利益を学費と生活費に充てた。それをキッカケに商売を始めることはなく、大学院を卒業すると日本へ帰国。アイ・ビー・エムビジネスコンサルティングサービス株式会社(2010年、日本IBM株式会社に統合)に就職する。27歳の時だった。理由は、「日本の社会・組織を知りたかった」からだと言う。同社には約3年在籍したが、その後に日系コンサルティングファームで1年働き、今後の自分の人生について考えるようになっていった。

「父親が上場企業の役員でずっと背中を見てきましたが、日本が高度成長期の時とは違い、僕らの時代は成長する産業が限られてくると思いました。経済成長が止まると予想して、ピンポイントで成長領域に入ろうと思ったんです。その時に、情報、高齢社会、教育をキーワードにしてこれから伸びそうな企業を探して、今の会社に入社しました」

2007年、入社した株式会社エス・エム・エスは、創業者が広い視野の持ち主で「会社を永続的にするためには世襲制などを排除して、後継者にバトンを渡す」という考えを実行に移し、後藤さんが選ばれることとなった。

3年前に創業者から襷(たすき)を受け取り社長になると、やがて時間のコントロールができるようになってくる。妻がバレリーナで活動的なこともあったのか、仕事しかしていない夫を見て、ネットで空手道場を検索。「ここに行ってきたら?」と東京ベイ港支部を勧めてきたと言う。昔の怖さをどこかで引きずりつつ見学へ向かった後藤さんは、小井師範や谷口先生の丁寧な指導とフレンドリーな道場の雰囲気に触れて、その場で入会を決意して白帯から空手を再開することに。入会翌年には新極真会の第5回総本部交流(現=練成)大会に出場して、組手・シニア30男子軽量級ルーキーで優勝をはたした。

「最初は優勝できてよかったんですが、その後は調子に乗って苦難の連続です。肋骨を折られるなど、1回戦負けが続き、ボロボロにされています。でも、不思議と昔のように嫌にはなりません。やったことがないことに飛びつくと刺激になって視野が広がっていきますし、非日常を続けると日常になってきます。空手は、その総量を増やしていくための潤滑油ですね。できれば、これからもずっと続けていきたいです」      

稽古後に後藤さんは黄帯を締め直すと、汗を拭きながら満足そうな笑顔を見せた。


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【カラテトランスフォーマー】vol.17 米澤元樹さん~脳神経外科医が目指す理想の空手家

信州大学に通っていた米澤元樹(よねざわ・もとき)さんは、平成12年から18年の6年間、医者を目指しつつ極真会館長野支部(現=新極真会長野支部)に所属して空手を習っていた。

「高校では柔道を習っていたんですけど、格闘技が大好きで空手をやりたいと思っていました。本当は高校を卒業してすぐに空手を始めたかったんですが、27歳で医学部に入ったこともあり、受験勉強が忙しくてなかなか入門することができませんでした。そして大学入学と同時に、ようやく長野支部で空手の門を叩くことができたんです」

長野支部は藤原康晴師範をはじめ、先輩や仲間たちが優しく接してくれて、水が合っていたようだ。大会にも出るようになり、やがて初段へ昇段。全日本ウエイト制大会に出場できるほど実力が上がっていき、文武両道を極めつつあった。

そんな時、ターニングポイントが訪れる。大会を観戦していた米澤さんの近くで観客同士のちょっとしたトラブルが起こってしまう。すると関係者が割って入り、すぐにその場を収めた。迅速かつ的確な対応をしたその関係者の行動力を見て、感動するとともに興味を持つようになった。

“あれだけ興奮していた観客を丁寧になだめて落ち着かせた、あの凄い人は誰なんだろうか……?” 米澤さんが興味を抱いたその人物こそ、のちに東京ベイ港支部を創設することになる小井師範だった。

「新極真会の機関誌『空手LIFE』を読んで、小井師範の経歴を知りました。元商社マンで、全日本ウエイト制3位に入賞。新極真会の事務局長までやられている凄い方なのだと、その時に初めて知りました」

大学卒業後、東京の病院で働くこととなる。空手を続けたかったが、医者の仕事が多忙だったこともあり、新しい道場を探す時間が見つけられずに年月が流れていった。数年後、長野支部から、会費の引き落としが滞っていると連絡が入る。新極真会の会員登録(サポーター会員)はそのままにしていたため、年会費がうまく払われていなかったようだ。慌てて新極真会本部事務局へ連絡を入れると、これも運命だったのだろうか。たまたま電話をとったのが、憧れていた事務局長の小井師範だった。

2010年に道場新設の情報を事前に得ていた米澤さんは、思わず「自分も新しい道場に通わせていただいてもいいですか?」と小井師範に入門許可を申し出た。その一本の電話で、空手熱が再燃していった。

小井師範からの許可をもらった米澤さんは、黒帯に恥じないようにと自主トレを開始。2010年のオープンから数ヵ月過ぎた頃に、ようやく道場へ足を踏み入れた。

東京ベイ港支部へ通い始めた当初、迷っていたのは“黒帯を締めていいのかどうか”ということだった。5年の空白は、半年の自主トレで簡単に埋まるものではない。本当は白帯から始めたかったが、藤原師範からせっかくもらった黒帯を捨てるわけにもいかなかった。すべてを受け入れる覚悟で再び黒帯を巻いた米澤さんは、初心者にアドバイスするたびに“こんなに偉そうなことを言える立場ではないのに……”という思いと葛藤しながらの稽古再開となる。それでも稽古していると、忘れていた記憶が次々と蘇っていった。

「これまで選手として大会で活躍することを目指していましたが、社会人になり、東京ベイ港支部へ通うようになってから目標が変わりました。小井師範が昇段審査合格のリポートに書かれていましたが、『社会の中での空手家の役割』を自分なりに考え、どんな人とでも打ち解けて接することができ、忍耐強くなれるように精神修行をさせていただきたいと強く思うようになりました。小井師範の指導を受けた後、道場の仲間はみんな笑顔で良い気が出ています。東京ベイ港支部は、ストレスを発散しながら人生を学べる場所だと思いました」

長野支部では空手の基本を学び、そして選手としてのスキルや諦めない心を身につけてきた。選手を引退した今、東京ベイ港支部では空手家として、人としての生き方を学ぼうとしている。

「強い人間になりたいというのは、昔から変わりません。強さは知力と体力が備わることだと思いますので、今後も医者と空手の両立を目指していきたいと考えています」

これからも米澤さんは、憧れの存在の近くで多くの気づきを得ることになるだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.16 登坂英正さん~空手との素敵な付き合い方

「最初は子どもに武道を習わせたくて入門説明会に行ったんですけど、気が付いたら自分も習いたいと思うようになっていました」

 マンション開発のデベロッパー業を営んでいる登坂英正さん(42)は、そう言って微笑んだ。支部第一期生の登坂さんは、5年前の2010年、自宅のあるマンションに品川港南口道場がオープンすることを知ると、妻の勧めもあり長男の政守君(当時2歳)を連れて説明会に参加した。そこには、ママ友ならぬパパ友もいて、親子で空手を習うという。子どものため……だった説明会が、やがて「自分もやってみようかな」に変化していき、1週間、思案したのちに入門を決意する。学生時代は中学・高校とテニス部に所属し、大学生の時にはテニスのインストラクターのアルバイトを経験。体を動かすことが好きだったこともあり、初めて習う空手に対して抵抗はなかった。運動不足もあったため、タイミングもよかったのだろう。ほどなくして道着に袖を通した。

初めての空手に怖さはなかったのか? 登坂さんは、苦笑しながら次のように答えた。

「じつは、フルコンタクト空手のことは何も知らなかったんです。その頃は、極真という名前も聞いたことがあるくらいでしたから……。でも、それがかえって良かったのかもしれません」

 予備知識がまったくなかった登坂さんは、真新しい道着を着て稽古に参加した。そこで直接、技を体に当てることを知り、「えらいところに来ちゃったな」と驚いたと振り返る。だが、小井師範の道場生のレベルに合わせた指導方法が合っていたのか、怖さは思ったほど感じなかったという。それよりも、少しずつレベルが上がっていくことに嬉しさを覚えるようになっていった。

「組手稽古を始めた頃は30秒くらいで息が上がっていたんですけど、少しずつですが息が持つようになっていきました」

 37歳から空手を始めて5年間、一歩ずつだが強さを実感できる回数が増えていく。昨日よりも今日の方が、少しだけうまくなる。そうした日々の積み重ねを体感する瞬間が、もしかしたら空手の醍醐味の一つなのかもしれない。長男の政守君は休会中だが、父親は茶帯を取得し、2013年に行なわれた第3回総本部交流大会(組手・シニア40’s男子40歳以上~50歳未満 軽量級チャレンジ)では優勝を経験している。

「今は、大会出場を目指す道場生が中心のアドバンスクラスにも参加していますが、稽古前は怖くてブルーになります。でも、いつまでも逃げるわけにもいきませんし、背を向けるわけにはいきませんから勇気を出して参加しています」

 試合前も怖くて仕方がなく、対戦相手のデータを調べることはしないそうだ。それでも挑戦を続けるのは、「逃げたくない」という思いがあるからなのだという。

「自分の目標はつまらない答えかもしれませんが、いつか黒帯になれたらいいなとか、いつかどこかの大きな大会で優勝できたらいいなと漠然と思っています。それが自分なりの空手との付き合い方ですね」

 踏み込み過ぎず、離れ過ぎず。空手との絶妙な距離感を保つことが、登坂さんのスタイル。それは、長く続けるための秘訣なのかもしれない。

「師範からも『無理をしないで、長く続けることが大事です』とおっしゃっていただいていますので、気持ちを切らさないようにうまく空手と付き合うようにしています。周りへの気配りが素晴らしい師範がいるからこそ、こうして続けられているんだと思います」

空手を日常にしている登坂さんは、これからもマイペースで素敵な付き合い方をしていくことだろう。


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【カラテトランスフォーマー】vol.15 趙さん~空手が与えてくれたもの

 澄(ちょう・ちょう)さんは、19年前にITエンジニアで夫の曹炬(そう・きょ、48歳)さんの仕事の都合により、日本へ移住した(※中国は夫婦別姓)。専業主婦として夫を支え、二人の子どもを授かるようになる。長男・曹沢浩(そう・たくこう)君は、体が大きく正義感が強い。二男の曹沢瀚(そう・たくかん)君は、無邪気で明るい性格のようだ。

趙さんは学生時代に陸上で短距離走・走り幅跳びなどに取り組んでいたため、体を動かすのは好きだった。区の健康診断ではメタボリックシンドローム、いわゆるメタボの注意を受けていたこともあり、「そろそろ運動をしないと……」と思っていたという。たまたま空手を習っている友人がいたが、自宅から道場までは遠く、通うには厳しい。そんな中、沢瀚君が通う学習塾で送り迎えをしている時に外で待機していると、隣の部屋を出入りする男性の行動が気にかかった。なにやらポスターを貼っている様子で、よく見ると“空手”“入門希望”と書かれた文字が目に飛び込んできた。その男性こそ、東京ベイ港支部(小井道場)の開設に奔走していた小井師範だった。

置いてあったチラシを手にとり、近日中にオープンすることを知る。運命の出会いとは、こういうことを言うのだろうか。二男の沢瀚君は風邪で熱を出すことが多く、長男の沢浩君は学校でイジメに悩んでいたことも後押しして、“私たちに空手は必要かもしれない”と心は大きく入門に傾いた。

2010年のオープン日。長男の運動会が終わると、三人は道場へ足を運んだ。小井師範が笑顔で出迎えてくれて緊張した気持ちがほぐれると、ユニークで優しい指導に好感触を得てすぐに入門を決めた。未経験でもレベルに合わせた指導法に、それぞれがはまっていく。第1期生として入門して1年が経ち、マジメに道場へ通っていた三人は、少しずつ別人のようになっていった。脂肪が筋肉へ変わりつつある趙さんは健康体を取り戻していき、沢瀚君は病気にかかりにくくなる。とくに大きな変化があったのは沢浩君で、悩んでいたイジメを克服することができた。その当時の様子を振り返る。

「仲間と一緒に弱いやつを見つけてイジメていく、素行の悪い同級生でした。最初は別の人をイジメていたんですけど、いよいよ僕の番になったんです。つねってきたり、呼び出されたりしました。デブとか言われても、なにもできなかったんです。でも、空手を習い出してからしばらく経って、そのイジメっ子が顔を殴ってきたんです。僕は、勇気を出して殴り返しました。そうしたら、二度とイジメられなくなりました。周りにいた仲間も、僕が空手をやっていることを知ったらしく、一目置くようになったんです」

もちろん空手家はケンカをしてはいけないが、身を守るために闘うことはある。そのイジメっ子はおとなしくなり、やがて転校することとなる。ケンカが嫌いな沢浩君がとった行動が、イジメの連鎖を止める役割をはたしたのだった。じつは沢浩君は、当初、小井師範が怖く稽古も厳しくて道場へ通うことをためらうこともあったという。きっとそれは、心の弱さを克服してほしいという小さなハードルが用意されていたのだろう。肉体の健康は、稽古を続けていけば自然とついてくる。だが心の強さは、意図的に負荷がかからないとなかなか身につかないものだ。「空手をやることで自信になった」と語る沢浩君は、より大きな成果を得ることができたのかもしれない。

三人の目標は、「最終的には黒帯を巻いてみたい」(趙さん)、「もっと筋肉をつけたい。大学へ進学しても続けたい」(沢浩君)、「大会で優勝したい」(沢瀚君)とそれぞれあるが、空手への熱い思いは同じだ。父・曹炬さんも、みんなが空手にはまっている姿を見て興味を持っているようなので近い将来、もしかしたら家族全員が揃うかもしれない。同じ方向を見て、みんなで讃え合える関係。空手が与えてくれたものは、計り知れないほど大きい。


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【カラテトランスフォーマー】vol.14 七戸じゅんさん~空手家議員に宿る武道魂

「選挙前なのに、よく試合に出ましたね」

 新極真会東京ベイ港支部に所属する七戸じゅんさん(54歳)は、空手の大会に出場することを聞いた仲間や関係者からそう驚かれたという。港区議会議員の総務常任委員長も務めている七戸さんは、4月26日に行なわれる港区議会議員選挙へ出馬する。昨年9月に入門したばかりのピカピカの白帯だが、選挙の約1ヵ月半前の2015年3月8日、都内の港区スポーツセンターで開催された「第5回総本部空手道交流大会」に出場した。

「入門して数ヵ月しか経っていませんでしたが、せっかく試合があるんだから出てみようと思いました」(七戸さん)

ケガをすれば選挙活動に影響が出る可能性があり、しかもわずかなキャリアの挑戦は無謀とも思えた。それでも、まったく臆することがなかったのだから肝が座っている。対戦相手が青帯8級の選手に決まると、ケガを心配した小井師範や谷口先生から最終の出場意思確認があった。だが、「ボディをガードしておけば大丈夫」と覚悟を決めて本番に臨んだ。

 試合当日。白帯を締めた新人がエントリーした階級は、第6試合場で行なわれたシニア50歳以上男子重量級デビュー。しかも第1試合だ。防具をつけているものの、ダメージを受ける可能性は十分にある。対戦相手と対峙した七戸さんは、試合が始まると猪のごとく突進した。突きや蹴りを出すが、わずか半年のキャリアでは正確に当てることは難しい。技の正確さを欠いて判定負けに終わったが、初戦にしては胸を張れる内容だった。

開会宣言をした武井雅昭・港区区長に笑顔で迎えられ、応援にきてくれた仲間の労いの言葉に涙が出そうになったという。スーツに着替え、本部席で試合を観戦する英雄の顔は、試合に負けた悔しさよりも満足感に包まれていた。

「試合をした時に痛みはなかったんですが、翌日、左腕が紫色になってみすみる腫れ上がり、ワイシャツの腕のボタンがつけられなくて袖をまくっていました。さすがは新極真空手ですね」

いまでこそ恰幅の良く見える七戸さんだが、青森で育った幼少の頃はガリガリでひ弱な少年だった。中学生の頃にバドミントン部で汗を流していたほかは、どちらからというとインドア派。極真空手の創始者・大山倍達総裁の半生を描いたマンガ「空手バカ一代」を読み漁り、密かに憧れを抱いていたようだ。

明治大学政経学部を卒業後、法政大学大学院経営学修了MBAを取得。株式会社リクルートに入社してから経験を積み、ソフトウェア開発会社および財務系人材系紹介会社を設立した。この頃に東京青年会議所へ入会し、港区委員会委員長を任せられた。政治に関心を持ち始め、当時の建設大臣の大塚雄司氏に強く薦められたことをキッカケに港区議会議員選挙へ立候補。平成15年、二度目の挑戦で見事に当選した。空手との接点は、政治の世界へ足を踏み入れてからだった。

「昭和35年生まれの35年会という会がありまして、12年前にそこで新極真会の緑健児代表に初めてお会いしたんです。極真空手の憧れていたものですから、気持ちは少年時代の頃に戻っていました。そして、5年前に小井師範が港区に道場を出されると聞いて、オープン用のポスターを貼るお手伝いなどをさせていただきました。また道場生が大会で結果を出された時に武井港区長を表敬訪問していただいていますが、アポイントメントを含めて橋渡しのお手伝いをさせていただきました。一昨年は年末の忘年会に港区議員としてゲスト参加させていただきましたが、昨年は道場生として顔を出させていただきました」

草ラグビー、フルマラソンを完走するなどアクティブな活動をしているが、「体が動かなくなる前に、やりたかったことをしたい」と入門を決意。50歳を過ぎてから、ようやく憧れの武道へと辿り着いた。いきなり試合を申し込んだり、道場の体験入門を省略するところは、七戸議員の真っ直ぐな性格を表している。

「政治もそうですが、即断即決が私のモットーです。武道、空手は礼に始まり礼に終わります。正々堂々と勝負し、相手を労わることを忘れません。政治も空手も誠実に向かい合えば、必ず結果がついてくると信じています」

港区をこよなく愛し、日本の発展を縁の下で支える七戸議員の次の決戦は、2015年4月26日。もちろん空手スピリッツで、難関を乗り越えることだろう。


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