【カラテトランスフォーマー】vol.13 佐藤潤さん~第1号会員は永久に不滅です

東京ベイ港支部第1号会員。まるで永久不滅ポイントのように燦然と輝く肩書きを持つのは、佐藤潤(さとう・じゅん)さん。58才。Vol.12で紹介した盟友・切明畑孝門さんと同じ大手広告代理店の株式会社電通に勤務し、新極真会の全日本大会などでは大会特別相談役として名を連ねる重鎮の一人でもある。

幼少時に剣道を習い、高校を卒業するまではサッカー部(ポジションはフォワード)に所属、会社では山岳部とスポーツ好きではあったが、それまで空手とは縁がなかった。だが大学を卒業後に入社した電通でスポーツ局へ配属されてからは、ビジネスで空手と絡むようになっていった。

 「極真の大会は97年の第1回カラテワールドカップから観戦していましたが、本格的に運営面で協力をさせていただくようになったのは99年からです。2003年に名称を新極真会に刷新した時の発表記者会見では、運営や広報などで協力をさせていただきました」 

裏方として新極真会を支えてきた佐藤さんが、空手を始めるようになったのは2010年。仕事が趣味へ変わる瞬間は、意外なタイミングでやってきた。

「これまで何度も新極真会の大会にご招待をいただき、緑代表を始め、みなさんとお付き合いをさせていただく中で、『空手をやりませんか?』と熱心にお誘いを受けたことがありました。ですが切明畑君は『仕事上、道場生になるのはちょっと』と話していましたし、やんわりとお断りをしていたんです。でも、中国で仕事をしてから心の変化がありました」

佐藤さんは、2008年に開催された北京オリンピックの準備のため、前年の2007年に中国へ単身赴任した。家族と離れ、慣れない土地での仕事と生活。さぞやストレスは大きかったことだろう。だが、現地で新極真会を普及している奥村啓治師範を緑代表に紹介されて訪問すると、その独特の指導法に驚かされることとなる。目の前には、国境を超えて楽しそうに空手をする不思議で温かい空間が出来上がっていた。

「北京道場を見学させていただきましたが、中国人だけではなくウクライナ人、ロシア人、フランス人など国際色豊かな人たちが楽しそうに稽古をしているんです。その中で奥村師範は、片言の英語とボディランゲージだけで会話を成立していました。ああ、新極真空手は、国境や言葉を超えることができる武道なんだと感動しましたね」

北京オリンピックが終了し、2009年に帰国。中国を発つ時には送別会、日本に就いてからは歓迎会に出席し、楽しいひと時を経験することとなった。喜びもつかの間、その後の健康診断では、生活習慣病のメタボ(メタボリックシンドローム)が通達されることに。医師からは食生活の改善と軽い運動を勧められた。そして、かねてより仕事を通じて知り合った新極真会の小井泰三事務局長(師範)が道場を開くニュースが耳に届くと、気持ちが大きく空手に傾き始めた。

「何かお手伝いしますよ」と佐藤さんが伝えると、小井師範から「では、体を動かしましょう」とオープン前に行なわれる体験会に誘われ、新しい道場へ足を踏み入れた。当時の年齢は53歳。初めての空手は不安もあったが、小井師範の相手のレベルに合わせた指導法が肌に合ったのか、心地良い汗をかくこととなった。稽古後のビールの味は、これまで経験したことがないほどおいしく、心身ともに浄化されたような気分になれた。

すぐに入門を決意。2010年6月10日の正式オープンにも参加し、第1号会員を認定された。佐藤さんの入門が広く知れ渡るようになると、弟の拓さんが兄に続き、切明畑さんも含めて多くの仲間の呼び水となった。週1~2回の稽古を続けた成果が出て、順調に昇級。「見るのとやるのは大違い」と思いつつも、空手の魅力にはまっていく。

そして2012年2月26日、初陣となる第2回総本部交流大会への出場が決まった。

「試合の1週間前から緊張していました。大会当日も各師範をはじめ、歴代の世界チャンピオンの塚本徳臣師範、鈴木国博師範、塚越孝行師範が次々と激励に来てくれました。でも周りから、『あいつは何者だ?』という目で注目されてよけいに緊張しました(笑)」

それでも道場仲間の熱い声援を受け見事デビュー戦で勝利。次の試合は残念ながらエネルギー切れで判定負けとなったが、貴重な体験をしたと今でも感謝しているようだ。

「攻撃をもらって下がると、相手の気持ちが強くなる。逆に攻撃して相手が下がると、こっちの気持ちが強くなる。これまで見ているだけでは分からないことが、闘ってみて初めて理解できました。試合は、下がってはダメなんですね」と冷静に分析するところは、さすがにメディアの最前線にいるだけのことはある。現在は4級の緑帯だが、最終的に目指すのは黒帯なのだろうか!?

「黒帯に挑戦するのは、山登りに例えると富士登山だと思っています。キチンと準備をしないと危険ですし、決して簡単なことではありません。私は頂上を目指すというよりも、富士山が綺麗に見える山に登り、そこから絶景を見たいのかもしれません。例えば八ヶ岳、箱根の金時山、三ツ峠山……などポイントはたくさんありますが、下界から見る富士山とはまた違って見えると思うんです」

 焦らず慌てず、ゆっくりと高みを目指す。これも佐藤さんなりの空手道なのだろう。大きな目標としては、東京ベイ港支部主催の大会が開催された時が来たら全力でバックアップすること。第1号会員は、みんなの夢を実現させるシェルパ(案内人)に徹したいようだ。「私は、周りの仲間に帯の色を抜かれてもいいんです。だって第1号会員は永久に抜かれませんから」と透き通った目で、高らかに笑った。


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【カラテトランスフォーマー】vol.12 切明畑孝門さん~電通マンにスイッチが入った瞬間

「職場では、私がフルコンタクト空手の道場へ通っていると打ち明けても誰にも驚かれないんですよ」

大手広告代理店の電通に勤務する切明畑孝門(きりあけはた・たかと)さんは、そう言って苦笑した。高校・大学時代にはラグビーで肉体を鍛え上げ、社会人になってもトライアスロン、水泳、マラソン(フル=3時間26分、ハーフ=1時間31分)に挑戦しているため、立派な体躯をしている。上背もあり、57歳とは思えないほど凛々しく若々しい。アスリートとしての雰囲気を身にまとっているためか、たしかに空手家と名乗っても不思議ではない。

東京ベイ港支部に入門したのは、2012年8月。2年で6級に昇級した。支部での存在感が帯の色以上に際立つのは、裏方として極真空手を支えてきたからだろう。

空手と接点を持つようになったのは、20年近く前まで遡る。ちょうど世田谷・杉並支部の塚本徳臣支部長が第6回世界大会で史上最年少チャンピオンとなり、厚木・赤羽支部の鈴木国博支部長とライバル争いをしている時からビジネスで関わるようになった。

「私は電通という会社でスポーツビジネスの仕事に20年間携わってきましたので、たくさんの格闘技関係者と会いました。そういう環境のなか、当時、まだ代表に就任していなかった緑健児さんからも大会のテレビ放映に関する相談を受けたことがありました」

それからというもの緑代表とは、年賀状のやり取りをする仲となる。また新極真会には昭和32年生まれの同世代に三好一男副代表、長野支部の藤原康晴支部長らがいたため、次第に意気投合していった。学生時代には大山倍達総裁がモデルになったマンガ「空手バカ一代」を熟読していたこともあり、空手への憧れも再燃しつつあったようだ。

だが8年前、最愛の妻・美奈子夫人がガンで他界してしまう。当時は長男の力(りき)さんが19歳、次男の良(りょう)さんが高校生だったこともあり、スポーツ局からコーポレート系のセクションへの異動を希望し、生活基盤を立て直すこととなった。スポーツ局から担当が外れても、緑代表には全九州大会、三好副代表から全四国大会、藤原支部長からは長野県大会へ招待を受け続け、仕事を越えた深い絆を感じていたと言う。大会観戦後は恒例のゴルフで汗を流し、「公私の“私”のほうが増えていきました」と振り返る。

それからほどなくして、同僚の佐藤潤さんが、東京ベイ港支部へ入門した。これまで何度もたくさんの師範や先生から新極真会への入門を勧められてきたが、その度に“友人関係が崩れるのが嫌だから”とやんわりと断ってきた矢先のこと。師弟関係になれば尊敬する存在として過剰な意識が出てしまい、友人関係に影響を及ぼすかもしれない。そんな悩みを抱えている時に、「佐藤さんがスルッと入ってしまったんです」と転機が訪れる。裏方として同じ立場のはずの佐藤さんが入門し、断る理由が消えていく。さらにゴルフ仲間が次々と入門することとなり、「完全に外堀を埋められていったんです(笑)」と覚悟を決めつつあった。

そして決め手になったのは、佐藤さんと一緒にゴルフした時のことだ。佐藤さんが柔軟体操をしている姿を見て、体力に自信があった切明畑さんは自慢するようにマネをしてみた。ところが、身体が硬くなっていて柔軟がうまくできない。この時の悔しさが引き金となり、ついに入門を決意することとなった。入門先は、佐藤さんと同じく会社帰りに寄ることができる東京ベイ港支部だった。

「最初は、空手をナメている部分があったと思います。体力には自信があったので、少しやれば、すぐにできるようになるだろうと思っていました。でも、見るのとやるのは大違いでした。稽古をやればやるほど、難しいことが分かりました」

心配していた師範たちとの付き合いの影響は、「小井ちゃんと呼んでいたのが道場では小井師範になっただけで、まったく問題はありませんでした」とクリア(?)され、入門して7ヵ月後には総本部交流大会に出場することとなる。体力を買われ勢いで大会に出てしまうところが、なんとも豪快な切明畑さんらしいが、闘いの場は決して甘い世界ではなかった。

「周りは回れ回れと指示していましたけど、まだ始めたばかりでしたから回り方なんて教わっていません。それに一般ではなくシニアの部に出場しましたから、もう少しフレンドリーに闘うのかと思っていたんです。でも、さすがに史上最強を目指す団体です。試合でアバラをやっちゃいました」と空手の洗礼を受けた。それでも負けず嫌いの性格が顔を出し、同僚の佐藤さんが同大会で1勝1敗の成績を残していることも背景にあったため、闘志に火がついたようだ。

「この場で宣言しますけど、来年の総本部交流大会に出場します。2年間の成長を見てみたいので」と2015年の総本部交流大会へのエントリーを公約した。ここまで遠回りをしたが、やはり生粋のファイターなのだろう。いまは空手道を驀進中だ。

「空手は、究極のスキンシップ。年功序列とか関係ないし、年下や女性に殴られても、『押忍、ありがとうございました!』と感謝して頭を下げる世界です。そして稽古が終われば、仲間と仲良く空手談議。こんなに面白くて、楽しい世界は他にありませんよ。それに佐藤さんともよく話しますが、新極真会の人たちと接していると元気をもらえるんですよね」

50歳を過ぎて空手に魅了された電通マンの夢は、定年退職後、全国の新極真会の道場で稽古をつけてもらうこと。年齢よりも若く見えるのは、きっと空手が生活の軸にあるからなのかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.11 千野崇さん~闘う投資銀行マンが見つけた居場所

コロンビア生まれの日本人。今年の4月に東京ベイ港支部の門を叩いた千野崇さん(39歳)の経歴は、いきなり異色である。コロンビアで生まれ、メキシコで幼少期を過ごし、アメリカ、ポルトガルなどを転々とした経歴を持つ。父親が商社に勤めていたため、兄とともに4人家族で世界各国を渡り歩くことは宿命ともいえた。だが、高校2年生の2学期、17歳の時に日本で一人暮らしをすることとなった。

「それまではずっと海外で暮らしてきましたが、いきなり親父に日本の高校へ通うように言われたんです。しかも帰国子女が多い高校ではなく、普通の私立の学校に入学するように勧められました。親父とは日本語で会話していたために言葉は理解できましたが、最初は普通に漢文・古文の授業が行われていて、『なんだ、これ!?』と驚きましたね」

千野さんの父親は、先見の明があった。日本の企業に就職してから海外に赴任するのと、グリーンカードを取得して最初から海外の会社で働いているのでは、待遇に違いがあるからだ。前者はお客さん扱いで優遇されるが、後者は這い上がるまでにかなりの努力が必要になる。東洋人というだけで、差別されることもあるようだ。このまま海外で生活していれば、就職した後に息子が困るのではないか。そう決断しての非情に徹した日本での一人暮らし命令だった。

「最初は学校の勉強の進め方がアメリカと違うので戸惑いましたが、日本は便利だし、交通網もしっかりしていて食べ物も豊富です。人が優しくて差別とかもあまりないし、本当にいい国だなと思いました。映像で屋台のシーンを見て行ってみたいと思っていましたし、長く海外に住んでいたので日本の良さを強く感じることが多かったです」

父親の狙い通り千野さんは日本へ馴染み、一流の投資銀行に就職。インベストメント・バンカー(投資銀行マン)として国内外で頭角を現していった。やがて結婚して二人の息子が誕生。すくすくと育つ我が子を見て、武道を習わせたいと思うようになっていく。  

「私が小学1年生から小学6年生まで、海外でキックボクシングを習っていたこともあり、格闘技に興味があったんです。せっかく日本に住んでいるのならば、空手を習わせてみたいと思うようになりました。調べたら自宅の近くに東京ベイ港支部の道場があることを知り、長男と一緒に入門を決めたんです」 

長男の峻君(6歳)はサッカーや他のスポーツを習っても長続きはしなかったが、空手だけは違ったという。週3回、道場へ通うだけではなく、自宅で父親と一緒に型を覚えたり、股割りをするなどその熱血ぶりは半端ではなかった。

 「この前、昇級審査があって息子と一緒に私も受審しましたが、なんと飛び級で合格したんです。あまりにも嬉しくて、息子とハグして喜びました」

峻君が空手にはまって……と嬉しそうに語る千野さんだが、息子以上にどっぷりと浸かっているのは間違いない。理由を聞くと厳しい現状を打ち明けた。

「私の仕事は、何千億ものお金をかけて企業の買収のお手伝いをするなど、M&Aをメインにしています。ライバルを蹴落とすためには手段を選ばずに非情なことをする世界ですし、つねにピリピリしている業界でもあります。取り引き先に訴えられて裁判に発展することもありますし、ミスをすれば席がなくなることだってあります。そんな世界に身を置いていますので、道場へ行った時の人の温かさ、ピュアな心に驚きました」

 少し前に流行したドラマの半沢直樹ではないが、つねに職場が戦場と化しているのが、インベストメント・バンカーという仕事の特徴なのだろう。その正反対に位置するのが、千野さんにとって空手の道場ということになる。闘う場所が癒し効果になっているのは常在戦場の千野さんらしいが、もしかしたら解毒作用が働いているのかもしれない。

だが残念ながら、2014年7月末を最後にニューヨークへ転勤することとなってしまった。新極真会のニューヨーク道場へ通うことになるため、慣れてきた東京ベイ港支部とはしばしの別れとなる。

「転勤の話を聞いた時、最初に頭に浮かんだのは生活面とかのことではなく、空手ができなくなるということでした(笑)。せっかく道場のみなさんに仲良く接していただき、仕事も順調で、これからという時だったのに残念です。でも、オフィスの近くに道場があると聞きましたので、空手は続けられそうです。日本へ帰れるのは3年になるのか10年になるのか分かりませんが、戻ってきたらまた東京ベイ港支部に通います」

 仕事を忘れ、人間らしくいられる場所。コロンビア生まれの半沢直樹が道場に見つけたのは、自分の居場所だった。ニューヨーク道場でも東京ベイ港支部魂は、いつまでも生き続けることだろう。そして闘う投資銀行マンの居場所は、いつまでも変わらずに道場の片隅に残り続ける。


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【カラテトランスフォーマー】vol.10 大石尚子さん~55歳の主婦が発見した新しい自分

「いま、やらないと年齢的に難しいですよ。それに早く入門しないと切(きり)さんの後輩になっちゃいますよ」

 この一言が、大石尚子さんが空手の道へ進む決め手となった。声の主は、新極真会の大会特別相談役を務め、東京ベイ港支部品川道場の第1号入門者でもある佐藤潤さん。文中に出てくる切さんとは、大手広告代理店の電通に勤務する切明畑孝門さんのことだ。

じつは大石さんの夫・健司さんは、切明畑さんと幼なじみ。健司さんと切明畑さんがデパートの地下でアルバイトをしている時に、たまたま大石さんも同じ職場で働いていたことが出会いの始まりとなった。やがて大石さんは健司さんとゴールイン。3人は、かれこれ30年以上もの付き合いとなる。

空手との出会いは、それから何十年も後のこと。会社の同僚でもある佐藤さんと切明畑さんは、仕事の関係で昔から新極真会と親交があった。そして友人の大石夫妻を大会へ誘い、ネットワークが広がっていった。

「それまで運動はやったことがなく、主人とゴルフを楽しむ程度でした。でも初めて見た空手は、小さい子が元気よく礼儀正しく取り組んでいるし、とても美しい型を披露されている選手もいました。佐藤さんが空手を始めたと聞いて、『ああ、私もやってみたいなぁ』と思わず呟いたことがあったんです。そうしたら切さんも空手を始めると聞いて、後輩になるのは嫌なので同時に入門することになったんです(笑)」

大石さんが東京ベイ港支部へ入門したのは2012年8月、もうすぐ丸2年になる。運動をしたことがない大石さんが、いきなり空手をするのは無謀だったのだろうか。

「最初はやるのと見るのとでは、大違いと思いました。見ていると私にもできるかなと思いましたけど、実際には手足の動かし方が難しいですね。しっかりと稽古しないと身につかないことがわかりました。でも、こんな私でも少しずつ覚えていくことができます。それが、とても楽しいですね」  

大石さんは、空手の魅力をそう語る。さらに東京ベイ港支部には、女性の指導員・谷口亜翠佳先生がいるため、心の支えになったという。

前回の当連載で紹介した野村麻由美さんら女性会員とも絆を深め、昨年は新極真会の全日本ウエイト制大会に出場した谷口先生を応援するために東京から大阪へ足を運ぶなど、空手は生活の一部になってきている。

「空手を始めてからは、佐藤さんや切さんを意識することがないくらいに自分の世界ができました。最初は怖さもありましたけど、危険なことは無理にやらなければいいと思います。小井師範は、その人のレベルに合った指導をされる先生なので、そこは信頼しています。それにゴルフを始めた時にプールやランニングも知り合いに連れられてやりましたが、体を動かすと気持ちが前向きになっていくように思います。空手は若い人もたくさんいますし、いい仲間ができるのも魅力のひとつかもしれません」

現在は、青帯8級。昇級審査では、オレンジ帯10級から今の帯に飛び級した。

「昇級審査って何? というレベルだったんですけど、2度目の審査の時は、週2回の稽古に加え、週3回に稽古を増やして一生懸命、稽古に励みました。飛び級は本当に嬉しかったです。もっとがんばろうと思いました」  

当面の悩みは、組手稽古の際に思い切った攻撃ができないことだという。「蹴ったら痛いよね、と思うと攻撃することに迷ってしまいます。もちろん攻撃したら私も痛いんですけど、人を殴ることができないんです」

人を殴れない空手家は珍しいが、これも千差万別。無理をしないで付き合うのも、その人なりの空手ライフだ。「昇級審査の時には組手審査もあったんですけど、暗黙の了解で互いに手加減すると思ったら、相手がバチンと打ってきたんです。そうしたら、クソ~って悔しかったんですよね。もっと若かったら、向かって行くのに……と悔しい感情が芽生え、新しい自分を発見することができました」

55歳の主婦が見つけた、新しい自分。もはや立派な空手家といっても過言ではない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.09 野村麻由美さん~美人看護師は、武道を好む

看護師の野村麻由美さんは、武道に憧れを抱いていた。母親が高校生の時に弓道を習っていたため、武道の素晴らしさを小さい頃から聞かされてきた影響があったのだろう。昔から武道には、特別な感情があったという。だが、家の近所に武道の道場がなく、学校の部活にも入っていない。潜在的に武道を意識しているものの、小学生の時は水泳とバスケット、中学生になるとテニス部に入部した。陸上競技大会のリレー走者として選抜されることもあるくらい足が速く、さらに高校では生徒会に入るなど、スポーツと勉強を両立する才女の片鱗を見せていた。

資格を取るために看護師を目指した野村さんは、生まれ育った茨城を離れ、青森にある医療系の大学へ進学する。そこでも近くに道場がないか、いつも気になっていた。大学卒業後は、青森の病院へ就職して武道とは縁がない人生を歩んでいく。

ところが勤務先の病院で、運命とも言える出会いが待っていた。就職先の病院に、たまたま空手を習っているドクターがいたのだ。その闘うドクターこと水木一郎さんは、新極真会・青森支部に通う消化器内科医。空手が大好きで、周囲の反対を押し切ってまで稽古に通う熱血漢でもある。野村さんの眠っていた(?)好奇心が一気に高まり、水木先生に武道への思いをぶつけてみると意外な言葉が返ってきた。

「私のことを思っていただいたのか、『君には無理だよ』と言われたんです。先生は稽古でケガをすることがあり、細かい作業が要求されるドクターの仕事との両立に苦しんでいたようなんです。ドクターほどではありませんが、看護師も手をケガするわけにはいかないので、かなりの覚悟がないと続けることができないと思われたのかもしれません」

やんわりと止められた武道への道。だが水木先生は、そんな野村さんに新極真会の第21回ウエイト制東北空手道選手権大会(第1回青森県空手道選手権大会、2011年9月18日に開催)へ看護師として参加しないかと声をかけた。大会ドクターの席は、通常、試合場の目の前に設置されることが多い。初めて見る空手の試合に、野村さんのテンションは一気に上がった。

「でも、格闘技の試合を見るのは好きではないんです。相手が倒れる姿とか、痛々しくて見ていられません。私が好きなのは、礼儀作法、武道らしさです。その点、空手は相手が倒れたら立ち上がるまで背中を見せて正座していたり、帯を直して判定を待ったりする礼儀正しい競技ですので、とても感動しました」

空手の魅力にとりつかれた野村さんは、道場へ通いたいという気持ちが大きくなっていく。それを察したのか水木先生が、新極真会・青森支部の鳴海沖人師範を紹介してくれた。すぐにでも道場に通いたい。だが、数ヵ月後には東京の病院に就職することが決まっていたために悩みを相談すると、今度は東京ベイ港支部の小井師範に挨拶をする機会を作ってくれた。小井師範は、「うちの道場には女性の先生もいますので、ぜひいらしてください」と快く受け入れてくれることとなった。東京へ行く前の4ヵ月間、鳴海師範の計らいで青森支部へ通う許可が出て、短期間で空手を初体験。そこで出会った仲間との稽古は、想像以上に充実していたようだ。

そして今度は東京ベイ港支部の小井師範が、温かく迎えてくれた。初めて会った谷口亜翠佳先生も優しく、青森支部と変わらない心地よさを実感していた。

「この年齢(30歳)になって褒めてもらうことなんて、あまりないじゃないですか。でも道場だと顔を出すだけで『よく来てくれたね』と声をかけてくれたり、突きや蹴りが上達すると褒めてくれるんです。それが嬉しくて、嬉しくて」

完全に空手のスイッチが入った野村さんは、仕事の夜勤明けでも寝ないで稽古をする時もあるほど、のめり込んでいく。組手稽古で腕に青あざができると、患者に心配されることもあるようで、この時ばかりは立場が逆転していると苦笑する。熱心さが認められたのか白帯から橙帯10級に昇級すると、次は青帯8級に飛び級した。“好きこそものの上手なれ”という言葉通り、武道が、空手が肌に合っているようだ。

現在は黄帯6級となり、順調に階段を昇っている。昨年は、川崎東交流大会の組手の試合に初めて出場。結果は一回戦負けだったが、延長まで持ちこんだ。さらに郡馬県大会の型の試合に出場したが、体調不良で満足な稽古もできずに敗退と不本意な結果に終わった。今年の総本部大会では組手の試合でファイナルへ進出したが、準優勝に悔しがる。負けず嫌いの性格もあり、このまま引き下がれないことだろう。

「小井師範、亜翠佳先生をはじめ、仲間もみんないい人ですし、道場はホッとするような空間ですね。とくに亜翠佳先生の存在は、私にとって大きな存在です。型のチャンピオンになってから本格的に組手の試合に出ていますし、尊敬する部分が多いです。じつは亜翠佳先生が空手を始めた年齢(28歳)と、私が空手を始めた年齢が一緒なんです。だから、キャリアや年齢を言い訳にできないんですよね」 

そう言って笑う姿は、空手家としての凛とした美しさを持っていた。


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【カラテトランスフォーマー】vol.08 山中ファミリー~家族で習えば、空手は100倍楽しくなる。

山中ファミリーの中で最初に空手を習い始めたのは、長男の脩叶(しゅうと)君だった。3年前の2010年、彼が4歳の時に、新設されたばかりの東京ベイ港支部・品川港南口道場の門を叩いている。父・淳司さんは、「息子は体が小さく、アレルギーや軽度の喘息が出ていたので、武道をやらせたいと思っていました。道場へ通い始めてからは、不思議と一度も発症しなくなりました」と当時を振り返る。“健康で強い子に育ってほしい”という思いは、親ならば誰でも持っていることだろう。空手を習うのは自然の流れともいえる。

また、甥っ子が空手をやっていたことも背景にあった。ネットで空手を検索していると、たまたま自宅近くに東京ベイ港支部の道場があったため、通い始めるキッカケになった。母・裕美子さんによると、「他の習い事は嫌だと言っていましたけど、空手だけはやりたいと言ったんです」と張り切っていたと言う。最初の2、3回は泣いていたようだが、やがて慣れていくと熱心に取り組むようになる。そして、リーダーシップを発揮するようになっていった。現在は、順調に青帯へ昇級。第8回東京佐伯道場交流大会の型・幼児の部で優勝すると、同第9回大会では小1初級の部でベスト8に入っている。少しずつ実力をつけてきたこともあり、将来は「世界チャンピオンになりたい!」と目を輝かせた。

 息子の成長に刺激されたのは、父・淳司さんだった。学生の頃からスポーツで頭角を現し、大学・社会人とラクロスの選手として活躍した。全日本選手権で7回の優勝、2006年には、日本代表としてワールドカップに出場している。一流のアスリートとして業界を牽引していた時代もあった。だが、両ヒザをケガしてしまい、手術をすることに。手術は成功したものの、一線を退く決断に迫られた。激しく走るスポーツで、ヒザのケガは致命傷になる場合もある。ましてや一線級となれば、なおさらだ。結局、ラクロスはこれまでとは違った形で接するようになっていった。ところが空手を通じて息子が逞しくなっていく姿に触発されたのか、アスリートの血が騒ぎ始めていく。息子が始めた1年後、父親も道着の袖に腕を通すこととなった。

「見るのとやるのは、全然、違います」と苦笑する淳司さんだが、そこは元一流アスリート。すぐに順応ができるようになり、突きで前へ出る組手スタイルを確立し、緑帯に昇級すると、2013年2月24日に開催された第3回総本部交流大会のシニア男子30歳以上40歳未満重量級チャレンジで準優勝、同年6月2日に行なわれた川崎東交流試合でも、壮年男子35歳以上42歳未満中・上級の部で準優勝に入賞した。少ないキャリアを考えれば、十分な成果を叩き出したと言えよう。

3人目は、母・裕美子さんだった。裕美子さんもラクロスの選手で、淳司さんと同じように大学、社会人ともに真剣に取り組んでいたと言う。出産後もラクロスを続けるほど、身体を動かすことが好きだったようだ。運動が大好きな母親の前で、息子と父親が空手に魅了されていく姿を見て、触発されないはずがない。指導員の亜翠佳先生からも「お母さんも、やりましょう」と誘われていたこともあり、心を揺さぶられる日々が続く。「下の子がいたんで、なかなかできなかったんです……」という理由が背景にあったため踏み切れなかったようだが、ついに2012年3月、道場で知り合いになったママ友とともに入門を決意した。こうして3人の空手ライフがスタートすることとなる。青帯を取得し、母親も奮闘中だ。妹の友結香ちゃんは、まだ空手を習っていないが、家族3人がやっていれば始めるのも時間の問題だろう。

夫婦で組手稽古(スパーリング)をすることもあり、裕美子さんは「思い切りできるから楽しい」と話し、「こっちはやりにくいですけどね」と淳司さんは苦笑い。それでも楽しそうに微笑み合い、むしろ夫婦円満につながっているのかもしれない。
仕事や家事、学校をそれぞれがこなしながら、空手の稽古・試合に取り組む多忙な山中ファミリー。空手という共通の話題ができたことで、家族の絆はさらに深まっているようだ。空手によって健康になり、礼儀・礼節はもちろんのこと、人を思いやることで人生が豊かになっていく。こんなに素晴らしいことはない。そして一人よりも二人、三人……と仲間が増えていけば、空手は10倍、いや100倍は面白くなっていくはずだ。

山中ファミリーの素敵な笑顔が、それを証明しているようでもあった。
当面の目標は、父と子ともにカラテドリームカップに出場して入賞すること。また家族揃って黒帯になることが、究極の夢でもあると言う。世代を越えて共通の夢を持てるなんて、空手ならではのことかもしれない。


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【カラテトランスフォーマー】vol.07 宮尾陽一さん~63歳の闘うドクターは弱気を救う

父親が自衛官だった宮尾陽一さんは、幼少の頃から日本全国を転々としてきた。体は大きいほうではなかったが、人一倍、正義感が強く、弱い者の味方になることをポリシーにしてきたという。大学時代は学生運動の真っ只中で、熱血派の宮尾さんは「スポーツをしている暇がない」ほどの多忙な日々を過ごす。その一方で、医者になって海外で困っている人を助ける夢を抱き、千葉大学(医学部)卒業後は本格的に医療の道へ進むこととなった。

大きな影響を受けたのは、小学生の時に読んだアルベルト・シュヴァイツァー(ドイツ出身のフランスの神学者・哲学者・医者)に関する本。「その本を読んで以来、未開の地で病気と取り組むことに魅力を感じていました」と宮尾さんは語る。外科医(消化器・乳腺)となって千葉県内のいくつかの病院で勤務した後は、長野県の病院に配属。そして、かねてから希望をしていたNPOやNGOの国際的な民間の医療・援助団体が行なっている海外への医師派遣求人に志願し、アジア・アフリカ諸国で苦しんでいる患者を助けることがライフワークになっていった。そこで目にした光景と経験は、宮尾さんの原点にもなっている。

「夢は実現しましたが、日本と派遣国の医療の違いの現状に愕然としました。たとえば、世界にあるCT機器の半分は日本にあると言われていますが、タンザニアには数台しかありません。1日に何度もCT検査を受けて病気の不安を取り除く日本人と、頼れる器械も医者も薬もないところで子供たちがポロポロと死んでいくアフリカの人々が、同じ時代に同じ地球上で共存している。この違いはなんだろうかと思うようになりました」

ちなみに厚生労働省が発表している、日本の65歳以上の一人当たりの1年間の平均医療費は約70万。反面、海外では約100~1000円の国もある。日本と海外の医療後進国の格差は、周知の事実ではあるが、実際に現場で直面するとその衝撃は大きかったことだろう。宮尾さんは、さらに日本と世界の医療格差について次のようにコメントしている。

「日本では治る病気やケガでも、海外だと対応できない国もあります。医療費の問題もありますが、医療器具や医師不足は深刻です。日本で育った私たちは、当たり前のように電気、水道、ガスなどを利用しています。近くのコンビニへ行けばなんでも揃っています。でも水は出ないし、電気もつかない場所が、この地球上にはたくさんあるんです。そうした現状を知ることが、私たち日本人には大切なことではないでしょうか」

国際派のドクターとしても活躍する多忙の生活な中で、宮尾さんは60歳を過ぎてから品川道場へ通うようになる。これまでにも長野の北斗会館で2年間、空手を学んでいたことがあったが、7年前に都内へ引っ越してきてからは道着の袖に腕を通すことはなかった。だが自宅の近所に品川道場の看板を見つけて、心が揺さぶられる。60歳からのリスタートになるが、迷うことなく入門を決めた。

「空手は自分との闘いです。相手もいますが、技をいかによけて反応できるか、自分の反射能力の問題になります。そこが魅力ですね。もちろん海外へ行った時の護身にもなりますが、それよりも身のこなしが軽くなる感覚があります」

稽古では、若い道場生と同じメニューをこなす。「歳だからと手加減されたり、組手で息が切れて、小井師範に休むように指示を受けた時は、正直悔しいですね」と苦笑する宮尾さんは、すべてにおいて全力を尽くす闘うドクターなのだろう。
現在は、長野県の病院で働いているが、週末になるとわざわざ都内へ戻って来て品川道場で汗を流している。「小井道場は、ここにしかないですからね。道場の仲間に会うと、みんな兄弟みたいな感じで、ホッとします。体だけではなく、心もほぐれていきます」と満足そうに笑った。まだ青帯だが、将来は黒帯を目指している宮尾さん。63歳の彼の闘いは、国内外で長く続きそうだ。


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【カラテトランスフォーマー】vol.06 末田実さん~ガンを克服した63歳のタクシー空手家

品川港南口道場には、稽古中に元気な気合いの声を発しているシニアの道場生がいる。
とくに目立つのは、今年で63歳になる末田実さんだ。
末田さんは高校を卒業後、工場に勤務し、建築関係の会社を経て、37歳の時にタクシー運転手に転職した。現在、その道25年のベテランドライバーとして、都内の港区界隈を自分の庭のように把握していると言う。そんな元気印の末田さんが空手と出会ったのは、高校1年生の時だった。

「私は大分県の出身で、高校の時に福岡県へ引っ越しをしました。中学生の頃はバレーボールをやっていたため、高校1年生の最初の時にすぐに入部しました。でも、近所の知り合いに空手をやらないかと誘われて、バレーボール部を辞めて始めることになったんです」

幼少の頃に両親が離婚。母子家庭で育つ5人兄妹の長男で、活発な少年だったようだ。
福岡へ引っ越してきた時は、母親の務める会社の社宅で暮らし、近所で空手を習っている30歳くらいの男性と知り合った。その男性から、末田さんが高校1年の夏に道着を手渡され、「空手をやらないか?」と誘われたと言う。それが、すべての始まりだった。家の近所に極真空手の道場はなく、拳心館という空手道場の門を叩くこととなる。

「もう40年以上も前ですから、やっていることはメチャクチャでした。元気がよすぎる若者も道場に通っていて、顔面を殴ってくるし、何人も倒されていましたね。先生に『よし次!』と言われる度に、みんなが目を合わせないようにしていました。私は負けず嫌いでしたから立ち向かっていきましたが、先生から『あまりやりすぎないように』と注意されて、最後はグローブをつけてその若者たちと殴り合っていました」

高校を卒業した後は、自然と空手からも離れてしまう。それでも空手への情熱は残り、大山総裁の修行時代を題材に綴られた小説「風と拳」などを読んで目を輝かせたこともあった。道場へ足を運ばなかったのは、「巡り合わせが悪かったからでしょう」と振り返る。 都内の大森に住んでいた末田さんは、たまたま品川の都営住宅の抽選に当たり、2年前に引っ越してきた。そこで目に留まったのは、新極真会東京ベイ港支部の看板。自宅の横に空手の道場がある。しかも、憧れていた新極真空手の道場を見つけ、胸に熱いものが込み上げてきた。

60歳を過ぎていたが恥を覚悟で見学へ行き「もう歳なんですけど、大丈夫ですか?」と不安そうに尋ねると、意外にも小井師範は「大丈夫です」と温かく迎え入れてくれた。武道に年齢制限はない。末田さんは、それを痛感したことだろう。
いつも元気な末田さんだが、じつは胃ガンと大腸ガンが見つかったことがある。胃ガンは5年前に発覚したが早期だったため、除去に成功。大腸ガンは、昨年10月、胃ガン手術の経験があったことから念のために大腸を検査し、そこで発覚した。どちらも早期だったことが幸いして、除去に成功している。

「本当によかったです。検査を勧めてくださった病院の先生に感謝しています。元気でいられることが、本当に幸せですね。2ヵ月間、治療とリハビリのために稽古を休むことになりましたが、こうして復帰して空手をまた元気にやれることに感謝しています」

末田さんの気合いは、空手への感謝の気持ちの表れだったのだろう。65歳までは空手を続けたいと恥ずかしそうに笑ったが、その横顔からはまだまだ現役の決意が伝わってきた。


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【カラテトランスフォーマー】vol.05 イムラン・スィディキさん~35歳で空手を始めた英会話校長の野望

 麻布十番道場で稽古している36歳のイムラン・スィディキさんは、父親がパキスタン人、母親が日本人のハーフ。日本で生まれ日本で育ったが、インターナショナルスクールに通っていたので英語に精通しており、現在、都内の麻布十番でコペル英会話教室を開校している。
「うちでダメなら英語は諦めて下さい」をキャッチフレーズに掲げている同校は、丁寧で理論的な授業が好評で、生徒は大人と子供を合わせて300名近くに上る。

 英会話を苦手にしている日本人が多い現状について、「英語を話すことを恥ずかしがって、試さない人が多いように思います。中学・高校の6年間、英語を習っているため、話せないことにコンプレックスがあるのかもしれません。試す前に完璧を目指して習得しようとする傾向がありますので、そこが壁になっているように思います。学校で英語を習った土台はありますので、誰でも上達できる可能性があるはずです」とイムランさんは語る。習って、試す、そして上達していく過程は、空手と通じるものがあるのかもしれない。

イムランさんが2011年11月から麻布十番道場に通うようになったキッカケは、愛息のユースフ君(5歳)がすでに入門していたことや、「いつも教える立場なので、教わる立場の気持ちを知る上で興味があった」からだと言う。

実際、東京ベイ港支部の小井師範の指導法は勉強になるようで、「下突きのイメージをボウリングの球を投げるようにと言われていて、とても参考になりました」と証言する。教える立場と教わる立場。どちらの心理もわかれば、上達させるための大きな武器となるのだろう。

空手との出会いは、イムランさんが中学生の時まで遡る。父親の友人に勧められて、フルコンタクト空手を習い始めたことがファーストコンタクトだった。だが稽古内容が厳しく、また自宅がある都内の白金高輪から神奈川県の川崎までの遠距離を通っていたこともあり、次第に足が遠のいていった。

やがて自宅近くの伝統派空手の道場へ通うようになるが、長続きはしなかった。そうして空手への思いが薄れていく中、何十年かの月日が流れ、奇遇にも息子が友人の紹介で始めるようになる。忘れかけていた空手への興味が再燃してきたイムランさんは、息子の稽古を見学することに。この時に小井師範の丁寧な指導を見て、「心のこもった教え方をされていて感動しました」と入門を決意した。

入門して2回目の稽古の時には中学生と組手をすることになり、自分の攻撃がまったく当たらないことに衝撃を覚える。それは、空手の奥深さを体感する瞬間だった。それからイムランさんは、毎週火曜日、レッスンの都合をつけて(強引に?)麻布十番道場へ足を運んでいる。無理をしないで、楽しく学ぶ。英会話を学ぶことと同じように、自らも心地よい距離感で空手と付き合えるようになった。

趣味でフットサルもやっているが、こちらは半年に1回程度の活動なので、空手をすることが一番の楽しみ。稽古で大声を出すことも新鮮で、健康だけではなく仕事にもいい影響があるのは間違いない。

現在は青帯で、今年2月の総本部交流大会に出場して、初めて試合を経験した。残念ながら一回戦負けとなったが、次につながる大変貴重な経験をさせてもらったと語る。

将来についてイムランさんは、「空手は一度、どんな大会でもいいので優勝してみたいです。あとは、東京ドームで英会話のセミナーを開いてみたいですね」と壮大な野望を語った。

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【カラテトランスフォーマー】vol.04 西山英史さん~本当の強さを見つけるために

赤坂で歯科医院を開業している西山英史さんは、昨年10月にオープンした東京ベイ港支部赤坂道場の第1号の道場生だ。年齢は現在、44歳。空手をスタートする年齢としては、決して早いほうではない。それでも西山さんを突き動かしたのは、なんだったのだろうか。

「小さい頃から、空手に憧れがありました。でも、中学・高校は空手部がなかったんで、他の部活に熱中し、全国大会にも出場しました。強豪校だったので、練習はとても厳しかったことを覚えています。大学時代は歯科医になるための勉強で多忙でしたので、空手とは縁がなかったのかなと思うようになっていきました」

何回か空手の道場を見学することはあったが、独特の雰囲気に馴染めず、入門を決意するまでには至らなかった。ケンカに強くなりたいわけでも、大会で活躍する選手を目指すわけでもない。ただ、自信をつけること。その目的だけでは、敷居が高かった。

アメリカで歯学の勉強をしている時も、その気になればボクシングや総合格闘技など他の競技を学ぶ機会はあったようだが、空手しか興味がなかった。それは道を追求することが、真の強さを得られることと信じているからだと言う。

帰国後、空手からは遠ざかってしまったが、赤坂へ西山デンタルオフィスを開業した。じつは、その時も自宅近くの空手道場を見学したが、やはり雰囲気に戸惑い、入門を断念している。運動は、フィットネスジムで続けていたが、「私は、これをやっていますという軸がほしかったんです」と空手への思いは月日とともに膨らんでいった。

再び、空手の引力に吸い寄せられたのは、赤坂道場の入会案内が、自宅とオフィスにそれぞれ届いてから。二つの入会案内を並べ、「運命を感じました」と苦笑する。オフィスから歩いて、わずか数分のところに空手道場がある。西山さんが勇気を出して道場へ足を踏み入れると、小井師範と谷口先生が優しく迎え入れてくれた。「小井師範は、初めて会った私なんかにも、とても丁寧に対応をしていただきました。谷口先生も明るく素敵なかたで、見学したその場で入門を決めました」と西山さんは、当時を振り返る。

ダムが決壊したように空手への思いが爆発した西山さんは、通える時は、週2回も道場で汗を流すようになる。もちろん経理・人事・社長業・技術者といった何役もこなさなければならない歯科医院は激務で、それに加えて学会や講演の準備、専門誌への執筆なども行なっている。それでも空手をする時間だけは、確保しているからさすがだ。

「フィットネスジムで走っていると、つい仕事のことを考えてしまいます。でも空手をやっている間だけは、仕事のことを忘れることができるんです」

 日々の生活の中で、リセットすることは大切だ。空手の稽古でストレスを解消し、リセットする時間も同時にできているのだろう。唯一の心配は、ケガだと言う。手先の細かい作業が要求される歯科医は、手や腕を負傷したら業務に支障が出る可能性もある。同じ歯科医の妻も、それは心配しているらしいが、当然のことだろう。

「広井先輩には、よく稽古で使う拳サポとは違い、指が覆われているグローブタイプのサポーターを勧めていただきました。初対面の私なんかに、丁寧にご指導いただけるなんて、とても驚かされました。強くなると周りに優しくなれるといいますが、小井師範、谷口先生、広井先輩や道場の先輩方は、みなさん気配りのできる優しい方ばかりです。自分も、空手をやっていると胸を張って言えるような人間に、早くなりたいですね」

 父親は、ある出版社の経営者。長男の西山さんが後を継ぐのが自然の流れだが、あえて歯科医の道へ進んで開拓者となったのは、強さへの憧れがあったからに違いない。 取材した時にもらった西山デンタルオフィスの名刺には、「―すべての歯科治療に審美を―」と書かれていた。審美とは、「自然や美術などの持つ、本当の美しさを的確に見極めること」である。美しさを極める。その道は、空手に通じるものがあるのかもしれない。

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