ストーリーstory

 飄々と、淡々と。けれどもどこか楽しそうに自身の歩みを振り返る和田琉太のまわりには、ゆったりとした時間が流れているように感じられた。

『Story』の1回目、2回目に登場した村上四季や大沢彪は、タイプは違えど起伏に富んだ時期が少なからず存在した。ところが和田の場合、掘れども掘れどもそういった感情の浮き沈みが見えてこない。ふたりとは違い、空手をやめたいと思ったことは一度もないという。しかし、情熱的という雰囲気でもない。

 小学1年生の2月、両親が提案した「空手か剣道か」の2択で空手を選択したところから、和田の空手人生はスタートした。父の健太郎さんはもともと、小学生~大学生時代に空手を習っており、父親の仕事の都合で中学、高校をニューヨークで過ごしていた時期に、現地で黒帯を取得している。

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 自宅近くにあった東京ベイ港支部へ体験に行き、そのまま入門することになった和田。「稽古の最後に小井(泰三)師範が『みんな、お父さんお母さんに感謝しているか。道着を洗ってもらえるのは当たり前だと思うな。ごはんをつくってもらえるのは当たり前だと思うな』とおっしゃっていて、空手のことだけじゃないんだ、ここにしようと主人と話しました」(母・郁子さん)。「礼儀だけではなく、小井師範は『かわいがられる人になれ』ともおっしゃっていまいました。子ども相手だから子ども向けの話をするのではなく、私たちもドキッとするようなお話をされていたのが印象に残っています」(父・健太郎さん)

 入門から約8ヵ月後の『第2回東京中野道場交流試合』で試合デビューをはたし(一回戦敗退)、その後も初級の部に出場を続けるが、なかなか結果はついてこなかった。空手において、何でも器用にこなすタイプだった父とは対照的に、「ガンガン前に出て下がらないんですけど、スコンと上段の蹴りをもらって負けてしまうんです。小学4年生くらいでやっと強い下段蹴りが出せるようになったのですが、突きはまだまだでした」(健太郎さん)と語るほど、和田は不器用だった。「やりたければやればいいし、嫌になったらやめてもいいと言っていた」と空手を続けることは本人の自主性に任せていたが、和田は週3回、道場に通い続けた。

「空手がすごく楽しいわけではなかったですけど、道場に友だちもできていたので、稽古に出れば友だちにも会えるし、という感じでした。僕は不器用なので、家で父と技を練習したりするのは少し嫌だなと思うこともありましたけど、やめたいと思うほどではなかったです」

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 自主トレや実戦経験を積み重ねたこともあってか、初級の部で入賞を飾るなど少しずつ結果が出始めた和田。そして初の地方遠征となった小学4年生の長野県大会初級の部で、初優勝を飾った。この勝利は、「初めて優勝できてうれしかったので、長野県大会はとくによく覚えています」と語る和田本人だけではなく、「この日はたまたま私が仕事で行けなくて、ドキドキしながら妻に逐一LINEで連絡をもらっていました。優勝が決まった時は本当にうれしかったです」(健太郎さん)と、両親にとっても忘れられない出来事として刻まれている。

「大会でいい結果を残せば両親や師範、先生、道場の方々から褒めてもらえて、それがうれしかった」と徐々に大会で勝てるようになってきてから、さらに空手が楽しくなった。上級の部へ移行する頃になると、両親にもますます熱が入る。

「生活が全部、琉太の試合を中心に決まっていました。私たちはそこから休みを取るという感じで。地方に遠征する場合、宿はどうしよう? どこでごはん食べる? お城見に行こうか?みたいな会話が毎回あります」(健太郎さん)

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 和田が小学5年生の1年間で出場した大会の数は、じつに12。1ヵ月に1度のハイペースだ。健太郎さんは、和田がこれまで出場したすべての大会を表にしており、錬成大会は白、県大会は黄色、ブロック大会は青というように、きれいに色分けまでされている。日付、階級、結果はもとより、勝った相手や負けた相手まで記録されている本格的なものだ。

「大好きで大好きでしょうがなくて。琉太と同年代の選手は全員知っています」と笑う健太郎さん。熱狂的な「和田琉太ファン」の父は、息子の入門から約1年後に自身も東京ベイ港支部へ入門し、時に親子ダブルで試合に出場することもあるという。

 小学5、6年生になると、上級の部で入賞を飾ることもめずらしくなくなってきたが、先の戦績表においてひときわ目立つオレンジ色の『カラテドリームフェスティバル』だけは、「一回戦負け」や「二回戦負け」という文字が並んでいる。「強い選手と当たって毎回負けてしまっているので、勝ちたいというのが一番です。ドリームの大きいトロフィーが欲しいなと思います」と、穏やかだった語り口が若干強くなる。

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 試合でどれだけ勝てなくても、小井師範は「このままがんばれば、琉太は必ず強くなる」と和田や健太郎さんに言い続けたという。「全然勝てていない時期にそう言っていただいたので、本当に励みになりました」と、がんばる原動力になった。

 一方で、「(谷口)亜翠佳先生は琉太のことを甘やかさないです。試合で勝っても『すごいね』とは言わず、次に向けての課題を言っていただく感じです。褒めて伸ばす子もいると思うので、おそらく人によって変えていると思います」と健太郎さん。しかし、和田は「自分ではあまり厳しいと思っていないんですよね」と笑った。「技を教えていただいたり、試合の分析をしていただいたり。そういったことのおかげで勝てるようになったのかなと思います。小井師範と亜翠佳先生には、ここまで強くしていただいてありがとうございますと言いたいです」と、恩師への感謝を口にする。

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 今春から高校生となった和田は、5月の『第8回JFKO全日本大会』男子軽中量級へ出場し、一般部デビューを飾った。「突きで効かされて動きが止まってしまった」と、一回戦で武奨館吉村道場の福井啓太選手に敗れたが、「一般部はジュニアと違って防具のある頭を蹴ったから技有りになるわけではなく、効かせないといけない。全然違う競技なんだなと思いました」と、貴重な経験を積んだ。「ボディを効かされていいところを出せずに終わったので、悔しそうでした。『腹筋をしないからだ』と私が話したら、そこからは一日300回くらい腹筋をやるようになりました」(健太郎さん)と、自主的に筋トレに励むようになったという。

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 先述した「このままがんばれば、琉太は必ず強くなる」という小井師範の言葉は、和田の闘い方が素手・素足の一般部に向いているという意味も含んでいる。健太郎さんも「テクニックはないんですが、相手が嫌になるくらいとことん前に出てプレッシャーをかけ続けるんです。下がらない勇気と体幹の強さ、そして気持ちで最後まで闘い抜くのが琉太のよさだと思います」とその可能性を信じている。

 小井師範や健太郎さんの見立ては、早くも結果となって実証された。今年6月の『第1回東京都大会』の高校生部門で優勝を飾ると、9月に開催された『第9回全北陸大会』は一般軽量級の部に挑戦。一回戦を不戦勝で勝ち上がると、二回戦は古川龍聖選手に本戦勝利。宇佐美大鳳選手との準決勝は本戦0-5で敗れたが、見事に3位入賞を勝ち取った。

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 ドラマティックな飛躍はないのかもしれない。けれども和田は「継続は力なり」を地で行くように、一歩ずつ、着実に強くなってきた。中学や高校進学のタイミングで空手から離れてしまう仲間も見てきた中、和田が空手に打ち込み続けるモチベーションはどこにあるのだろうか。

「モチベーションというモチベーションはないんですよね。空手をやっているのが当たり前になりすぎて、原動力を必要としないというか……。時間がきたら、また普通に稽古に行こうかなって。学校でも空手でも嫌だなと思うことはありますけど、僕は一晩寝たら忘れてしまうんです(笑)」

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 和田の一番の強さは、この安定したメンタルにあるのかもしれない。大人でも感情の揺れをコントロールするのは難しいが、「動じないというか素直というか。空手も勉強も部活(ボクシング部)も遊びも全部がんばって、毎日楽しそうなのでうらやましい」と父も認める楽観的な性格だ。こうしておおらかに育ったのも「何事も後悔のないようにやってもらって、本人が幸せならそれでいいです」という両親や、小学1年生から通い続ける東京ベイ港支部のおかげだろう。不器用だからこそコツコツと。大器は、遅れてやってくるのかもしれない。