ストーリーstory

「才能型」「天才型」。

 小井泰三師範や谷口亜翠佳師範代をはじめ、長年、彼を見てきた誰もがそう口にするように、村上四季には最初から天性の運動神経や空手センスが備わっていた。2010年、オープンしたての品川小井道場(当時)に4歳で入門すると、幼年ながら小学生のクラスに飛び級で参加。そして2年後の2012年7月、カラテドリームカップ(現・カラテドリームフェスティバル)国際大会幼年男女で優勝を飾り、競技選手としてこれ以上ないスタートを切った。翌年のドリームでも3位入賞をはたし、他支部・道場でも名の知られる存在となっていく。道場には週に4日通っていたものの、村上本人の中に「がんばった」という実感はなかったという。

「努力という努力はしていなかったと思います。ミットや組手では抜くこともありましたし、家で自主トレをすることもほぼありませんでした。でも体を動かすのは好きだったので、体力が落ちることはなかったです。あまり自覚はないんですけど、『本番に強い』と言われていたことも結果が出せた理由だったのかもしれません」

 決して歩みを止めたわけではなかったが、努力の成果が実を結び始めた周囲と反比例するように、小学2年生以降はドリームの表彰台から遠ざかり、その他の大会でも徐々に結果が出なくなっていく。それでも、当時の村上はその理由に気づくことができなかった。

「いきなり勝てなくなったので、小4くらいからはもう大会に出るのも嫌だ、稽古に出るのも嫌だという感じでした。たぶん中学受験のストレスもあったと思うんですけど、空手があるたびに『行きたくない』と言って親とケンカをしていました」

 トロフィーを持ち帰れない日々にもすっかり慣れ始めた頃、村上は強硬手段に出る。ある大会の会場で、小井師範に直談判したのだ。

「空手をやめたいです」「そうか。わかった」――。

 しかし村上の父・正さんは「小井師範と亜翠佳先生の側に置いておきたかった」と、決して空手をやめさせようとはしなかった。そして小井師範もその一件に触れることはなく、以降も変わらぬ愛情を持って村上に接し続けた。「彼には『結果が出ない時期もあるんだ』と話しました。とくに受験を控えた子どもたちは、そういう言葉を待っている部分もあると思うんです。ただ、『勝つための努力はしていけ』とも言いました」と、小井師範は当時を回想する。

 受験を終えて私立の中学に進学した村上は、サッカー部に入部した。通学には片道1時間かかり、部活動を終えてクタクタの体を引きずりながらも、空手の稽古に参加した。村上の中には、小学生時代とは違う感情が芽生え始めていた。

「気づくのが遅かったんですけど、何となくわかってきたんです。幼い頃は才能だけで勝っていたんだな、自分も努力しなきゃダメだなって。負けたまま終わるのも嫌でしたし、勝てない時期も小井先生と亜翠佳先生がずっとアドバイスをくださったので、恩返ししないといけないなという気持ちもありました」

 努力の大切さに気づいた背景には、誰よりも努力を重ねる同級生の存在も大きかったという。村上とは対照的に、入門からしばらく結果が出ない中でもコツコツと稽古を重ね、小学6年生のドリームフェスティバルで初のベスト8入賞をはたした同門の大沢彪だ。小学校の途中までは村上がひとつ上のクラスで稽古をしていたこともあり、深い間柄ではなかったものの、同じ中学受験を経験した者同士、そして徐々に道場内で同年代の人数が減っていく中、いつしか盟友と呼べる関係となっていった。

「これは僕だけじゃないと思いますけど、彪の影響は確実に受けています。彪は稽古ですごく追い込むんです。僕も全部が全部超えられるわけではないですけど、今日はミットで限界を超えてみようとか、筋トレで限界を超えてみようとか、毎回何かで限界を超えようと意識するようになりました」

 空手が「やらされているもの」から「自ら取り組むもの」に変わると、向かい風はふたたび追い風へと変わった。翌2020年の2月、埼玉県大会の中学1年男子軽量級で数年ぶりに優勝を飾ったのだ。高らかに復活の狼煙を上げたこの優勝は村上本人だけではなく、「本当にうれしくて大泣きしました。センスで勝ったというよりは、努力でつかんだ優勝だったので」(正さん)、「ずっと苦しみ抜いて、自分の力でトンネルから抜け出した瞬間だった」(小井師範)と、周囲の中でも印象深い出来事として刻まれている。

 新型コロナウイルスが瞬く間に全世界を襲い、しばらく空手の試合もなくなった最中、村上は3年間の高校留学を志すようになった。正さんは「お金もかかる話なので、何で行きたいのか、行った後にどうしたいのか考えをまとめさせました。行く理由がしっかりあって、自分で決めたことであれば、つらいことがあってもがんばれると思ったので。中学受験は第一志望の学校に落ちてしまったので、環境を変えたい、海外で自分を試してみたいということでした」と、息子の申し出を快諾した。

 海外への留学は同時に、空手や東京ベイ港支部とのしばしの別れを意味する。留学へのカウントダウンが進む中、やり残したのは全国規模の大会でもう一度頂点に立つことだった。不運にも学校の行事で右足を骨折してしまったが、「彼はもともと蹴りが得意ですが、足をケガしたことによって突きを強化するしかありませんでした。しかし、結果的に突きを強化したことで体幹も強くなり、得意の蹴りがより活きたんです」(小井師範)と、逆境をもプラスに変えてみせた。

 骨折から復帰後のドリームフェスティバル2021は中学3年生男子中量級の準決勝で敗退したが、まだ可能性は残されていた。さまざまな流派・団体からユース・ジュニア年代のトップ選手が集結する、新設された第1回JFKO青少年大会だ。「青少年大会までの2ヵ月半くらいは自宅でも今までにないくらい筋トレをやっていましたし、あの大会にかけていたんでしょうね」と、正さんは当時の様子を語る。「今までは勝とう勝とうとするあまり力んでしまっていた」と村上が語るメンタル面も「小井先生から『普段通りの力を出せば絶対に勝てる』と言われていたので、『これは稽古だ』と思うようにしたら今までにないくらいリラックスできたんです」と、8名がエントリーした中学3年生男子軽重量級の初戦、準決勝で勝利を収め、決勝へ進出。小学1年生のドリーム以来となる全国大会のトロフィーを確定させた。

 迎えた決勝戦は桜塾の岡田凌平選手と対峙したが、「決勝までいけたことで満足してしまったのかもしれない」と村上が語るように、本戦0-5で敗北を喫しあと一歩で王座を逃がした。この試合を目の当たりにした谷口師範代は試合後、初めて村上を叱ったという。

「今までは勝っても負けても、その時できる全力で挑戦したことに対し褒めてきたんです。四季はとても賢いので大人びている印象がありますが、じつはとても繊細な面があるので、基本的にプラスのことをずっと会話してきました。でも、あの試合は初めて『なぜ最後まで集中してやりきらないの? 気持ちを切らさなければ結果が変わっていたかもしれないのに』と話しました。もちろん相手選手が強かったというのもあったと思いますが、四季の蹴りで相手に技有りが入ったかもしれないと本人の中で判断してしまって、リズムが崩れる瞬間を目の当たりにしてしまったので……」

 それは、村上の真の実力を誰よりも知っているからこその叱責だった。スタンドから見守っていた正さんも「全国大会で入賞できたことはうれしかったですが、途中で心が折れてしまったことは悔しかったです。小井師範にとっても亜翠佳先生にとっても私にとっても、不完全燃焼だったと思います」と、複雑な表情を浮かべた。

 村上本人としても、モヤモヤした気持ちを抱えたままカナダへ旅立つわけにはいかなかった。「小井先生と亜翠佳先生からも、出られるチャンスがあること自体すごいことだと勧めていただいたのもあって」と、悩んだ末に足に埋め込まれたボルトを抜く時期を先送りにし、盟友の大沢とともに今年5月の第7回JFKO全日本大会挑戦を決めた。

 15歳にして素手・素足のフルコンタクトデビューとなったが、「もしケガをしてカナダ行きが遅れてしまったらどうしようという不安もありましたが、実際に闘ってみて僕は素手素足のほうが向いているのかなと感じました。突きもヒザもどちらかというと力で『ドスン』という感じではなく、『グサッ』と刺さるタイプなので」と、たしかな手ごたえをつかんだ。男子軽量級の一回戦では延長で石綿元選手に合わせ一本負けを喫したが、本戦は0-0と初挑戦の舞台で互角の攻防を展開した。

 去る7月2日に機上の人となり、語学学校を経て9月からはいよいよ高校に入学して新生活を始めた村上。「選手としてはどうなるかわかりませんが、目標である黒帯を取るまでは空手を続けようと思っています」と、いつか来る昇段審査のために、カナダでも変わらずフィジカルを鍛え続けている。

 「彼の人生において、空手をやってきてよかったと思えるようにがんばってほしいということと、今まで空手で磨いたものがあるので、たとえ言葉の壁や人種の壁があったとしても、負けるんじゃないぞと伝えたいです」と小井師範。谷口師範代は「少し冗談もありますけど、四季にはタイミングが合えばドリームも出られるよね? カナダで自主トレを続けなさい!と話しています(笑)。これから3年間カナダで学んで、それを戻って来た時に活かしてほしい。空手はずっと続けようね!」と、それぞれがエールを送った。

 正さんは「楽しいことも、うれしいことも、悲しいことも、悔しいことも、全部東京ベイ港支部で経験させてもらいました。四季はこれから壁にぶつかることもたくさんあると思いますが、空手をやっていた12年間が必ず彼を救ってくれると思うので、そんなに心配はしていません。間違った方向には行かないと思いますし、そのベクトルは東京ベイ港支部がつくってくれたと思っています」と、道場への感謝を口にする。最後に、両親と人生の師に対し、村上は思いを語った。

「両親には、空手をやめさせないでくれてありがとうと言いたいです。あそこでやめていたら今はありません。小井先生と亜翠佳先生には、できれば空手の先生としてじゃなくてもいいので、ずっと隣にいてほしいです。12年も道場に通っていたので、いないというのは考えられないんですよね。すごく親身になっていただきましたし、期待してもらっているのがわかっていたので、僕はそれに応えたいという気持ちもモチベーションになっていました。今の僕の半分くらいは、あのおふたりから教わったことです。だから本当に感謝しています。これからもよろしくお願いします」