信州大学に通っていた米澤元樹(よねざわ・もとき)さんは、平成12年から18年の6年間、医者を目指しつつ極真会館長野支部(現=新極真会長野支部)に所属して空手を習っていた。
「高校では柔道を習っていたんですけど、格闘技が大好きで空手をやりたいと思っていました。本当は高校を卒業してすぐに空手を始めたかったんですが、27歳で医学部に入ったこともあり、受験勉強が忙しくてなかなか入門することができませんでした。そして大学入学と同時に、ようやく長野支部で空手の門を叩くことができたんです」
長野支部は藤原康晴師範をはじめ、先輩や仲間たちが優しく接してくれて、水が合っていたようだ。大会にも出るようになり、やがて初段へ昇段。全日本ウエイト制大会に出場できるほど実力が上がっていき、文武両道を極めつつあった。
そんな時、ターニングポイントが訪れる。大会を観戦していた米澤さんの近くで観客同士のちょっとしたトラブルが起こってしまう。すると関係者が割って入り、すぐにその場を収めた。迅速かつ的確な対応をしたその関係者の行動力を見て、感動するとともに興味を持つようになった。 “あれだけ興奮していた観客を丁寧になだめて落ち着かせた、あの凄い人は誰なんだろうか……?” 米澤さんが興味を抱いたその人物こそ、のちに東京ベイ港支部を創設することになる小井師範だった。「新極真会の機関誌『空手LIFE』を読んで、小井師範の経歴を知りました。元商社マンで、全日本ウエイト制3位に入賞。新極真会の事務局長までやられている凄い方なのだと、その時に初めて知りました」
大学卒業後、東京の病院で働くこととなる。空手を続けたかったが、医者の仕事が多忙だったこともあり、新しい道場を探す時間が見つけられずに年月が流れていった。数年後、長野支部から、会費の引き落としが滞っていると連絡が入る。新極真会の会員登録(サポーター会員)はそのままにしていたため、年会費がうまく払われていなかったようだ。慌てて新極真会本部事務局へ連絡を入れると、これも運命だったのだろうか。たまたま電話をとったのが、憧れていた事務局長の小井師範だった。
2010年に道場新設の情報を事前に得ていた米澤さんは、思わず「自分も新しい道場に通わせていただいてもいいですか?」と小井師範に入門許可を申し出た。その一本の電話で、空手熱が再燃していった。小井師範からの許可をもらった米澤さんは、黒帯に恥じないようにと自主トレを開始。2010年のオープンから数ヵ月過ぎた頃に、ようやく道場へ足を踏み入れた。
東京ベイ港支部へ通い始めた当初、迷っていたのは“黒帯を締めていいのかどうか”ということだった。5年の空白は、半年の自主トレで簡単に埋まるものではない。本当は白帯から始めたかったが、藤原師範からせっかくもらった黒帯を捨てるわけにもいかなかった。すべてを受け入れる覚悟で再び黒帯を巻いた米澤さんは、初心者にアドバイスするたびに“こんなに偉そうなことを言える立場ではないのに……”という思いと葛藤しながらの稽古再開となる。それでも稽古していると、忘れていた記憶が次々と蘇っていった。「これまで選手として大会で活躍することを目指していましたが、社会人になり、東京ベイ港支部へ通うようになってから目標が変わりました。小井師範が昇段審査合格のリポートに書かれていましたが、『社会の中での空手家の役割』を自分なりに考え、どんな人とでも打ち解けて接することができ、忍耐強くなれるように精神修行をさせていただきたいと強く思うようになりました。小井師範の指導を受けた後、道場の仲間はみんな笑顔で良い気が出ています。東京ベイ港支部は、ストレスを発散しながら人生を学べる場所だと思いました」
長野支部では空手の基本を学び、そして選手としてのスキルや諦めない心を身につけてきた。選手を引退した今、東京ベイ港支部では空手家として、人としての生き方を学ぼうとしている。
「強い人間になりたいというのは、昔から変わりません。強さは知力と体力が備わることだと思いますので、今後も医者と空手の両立を目指していきたいと考えています」
これからも米澤さんは、憧れの存在の近くで多くの気づきを得ることになるだろう。