「昨年、衆議院議員選挙へ出馬するため故郷の高知県へ戻ることになりまして、とても迷いました。高知県に移住することになれば東京ベイ港支部に通えなくなってきますので、はたして籍はどうしたものかと。
そこで、かねてから懇意にさせていただいています新極真会高知支部の三好一男師範に相談したところ『今度の衆議院議員に当選して国政で活躍することになるんだから、籍はそのままの方がいいよ』とアドバイスをいただきました」
三好師範のその予言通り、広田一(ひろた・はじめ)議員は、2017年の第48回衆議院議員総選挙において高知2区から出馬し、見事に当選した。もちろん籍は、東京ベイ港支部のままだ。今は、月曜日から金曜日まで東京で衆議院議員としての務めをはたし、土・日は高知で過ごす日々を続けている。
もともと参議院議員だった広田議員は、徳島・高知の合区化反対の意思を軸に国政を変える意向が強くなり、衆議院議員に転身した。だが衆議院議員までの道のりは、決して順風満帆ではなく、まるで茨の道を突き進むようだったと振り返る。民進党を離党し、希望の党からの公認を辞退しての無所属での出馬は、大きな勝負と言えた。
「当時の国政は、離合集散を繰り返し、多くの議員が右往左往しているように見えました。でも、こういう時だからこそ自らの主張を曲げずに信念を貫くべきだと思いました。そのために無所属での出馬になりましたが、政党に属していないと政見放送に出られず、政党ポスターやハガキの制限など、ハンデだらけでした。ご承知のように仮に落選してから比例復活ということも無所属ではありませんので、退路を断って、やり抜く覚悟を決めました。これは、空手で、新極真会で学んだことでもあります」
政党に頼らない無所属での出馬は、自分の足で信頼を勝ち取らなければいけないため、靴を減らして汗を流した。「1票でも負けたら終わり」の覚悟を持ち、1年間で訪問した家や事務所の数は、約2万件にものぼった。有権者の意見を聞いて歩き、「誰よりも高知2区の実態を知ることができました」と泥や埃にまみれた。こうした真摯な姿が、有権者の心を掴んだのだろう。“この人ならば、何とかしてくれる”と広田議員にたくさんの票が集まった。
広田議員が空手と出会ったのは、14年前。高知県議会議員を務めていた関係で三好師範との縁ができ、全四国大会の大会副会長を任された(ちなみに大会会長は、中谷元議員が就任)。その時はまだ空手を始めてはいなかったが、中学生時代に剣道部で鍛えていたために武道への関心が高く、父親が大学生時代にレスリングのオリンピック候補にまで挙がる逸材だったこともあり、素地は十分にあった。
それから7年後、広田議員に大きな転機が訪れる。2011年3月11日、東日本大震災が発生し、当時防衛大臣政務官を務めていたことで対応に追われる日々が続いた。数日間で体重が10kg以上も減る激務により、みるみる痛々しい姿に変貌していった。全四国大会で広田議員の変わり果てた姿を見た東京ベイ港支部第1号会員の佐藤潤さんが、「ストレス発散と健康のためにも空手を始めた方がいいですよ」と心配して声をかけるほどだった。
ほどなくして広田議員は、入門を決意する。すでに息子が高知支部の三好師範の下で空手を習っていたものの、興味はあっても議員生活一期目でなかなか時間が割けなかった。だが議員活動のペースが掴めるようになると、都内であれば国会の合間に時間が割けるようになり、同じ四国出身で同年代、また三好師範門下でもあった小井師範の東京ベイ港支部の門を叩いた。空手を観戦していたこともあるのか不思議と怖さはなく、小井師範や谷口師範代の会員個々のレベルに合わせた指導法が水に合い、青帯を巻くまでに成長した。
「とてもいい雰囲気で、稽古をさせてもらっています。もっと稽古ができるようになれば、いつかは試合をしてみたいです」と広田議員。まさか顔に青タンをつくって国会に出るわけにはいかないのかもしれないが、武道の心得がある闘う議員は、国民にとって頼もしい存在であることは間違いない。
「とりあえず緑帯までいけば、自分の身を守ることができます。できれば、そこまでは辿り着きたいです。あとは全四国大会の中谷元会長をはじめ議員の関係者のみなさんとも協力して、フルコンタクト空手のオリンピック競技化を進めて行きたいですね」と力強く語る。
東京では東京ベイ港支部で、週末は高知支部の高知県庁空手クラブで汗を流し、日本人にとって大切なものを見極めている。今の日本に必要なのは、広田議員のような正義感を持った勇気のある熱血漢なのではないだろうか。
闘う議員は、日本人のための理想郷を目指してひたむきに走り続ける。